犬くぐり道

『細江町史 資料編三』原文

徳川時代、引佐郡細江町気賀にあった「気賀関所」は、新居関所に相対する浜名湖を中にした南と北の二大関所だった。
この関所は、姫街道に位置しているだけに「入り鉄砲に、出女」の監視の中でも、出女、すなわち地方の諸大名の婦女子の江戸から出ることに対しては、厳重だった。

所でこの関所は、町の東について出来ていた為、気賀の人々は不便が多かった。隣りの村、自分の畑へ行くのにも、ここを通らねばならない時があった。そんな時でも、
「こらこら、通行手形を出せ」
と関所役人にとがめられるのである。もし持っていない時は、
「駄目だ。帰れ」
と、叱られるのだった。
また、関所の大門は、午後六時に閉められるのでその後は通ることは出来ない。
「不便だな」
それで村人たちは相談して、
「何とか、穏便な方法を──」
と、気賀の殿様、近藤縫殿助に願い出た。

気賀の関所を預かっている殿様としては、
「国の法は曲げられぬ」
と言った。だが、情の厚い殿様は、領民の不便は察せられるので、
「では、犬の通る道を作ってやれ」
と、関所の裏側、山の裾にそって細い細い、しかもうねうねした粗末な道を作った。そして途中に筵を垂らして、下を五十センチ程あけておいた。
「犬なら、通っていいぞ」
犬なら平気で通れるが、立って歩く人間は通れなかった。それで村人は、ここを通るときだけ四つ這いになって通った。これが法の盲点で、村人たちは領主の慈悲に対し、
「有難い事で──」
と感謝するのだった。

併しここは、武士は一人も通らなかったし、旅人たちも通らなかった。それのみか、村人は領主に感謝して通る旅人を監視し、若しあると、「関所破り」として、関所につき出して協力したという。(御手洗清著「続々・遠州伝説集」)

『細江町史 資料編三』より