影取池

神奈川県藤沢市大鋸

昔、遊行寺の近くに、森という大尽がいた。森家は大蛇を飼っていて、「おはん」と名づけ家人一同可愛がっていたが、あまりの大食いにたまりかね、蛇にいい聞かせて、藤沢宿の東はずれにある池に捨てることにした。一説には森家の窮状を察して自ら出ていったともいう。

おはんはこれまでのように餌を与えてもらうわけにはいかなくなり、思案の末、池の水に映る旅人の影を取って食ってみたところ腹がふくれた。これより池のまわりでは影や所持する米酒がなくなることが度重なることになり、池は影取池、村も影取と呼ばれるようになった。

影を取られた人はやがて弱って死んでしまうので、困った村人たちは影取池の大蛇を退治しようとした。しかし、色々な名人に頼んでも大蛇は神出鬼没で捕らえることが出来ず、かえって名人たちの方が影を取られてしまう有様だった。

ある時、江戸の鉄砲撃ちの名人が来たので、大蛇討伐を頼んだ。名人は蛇がおはんと呼ばれていたことを知り、池の畔で「おはんさん」と呼びかけた。大蛇は懐かしい名を呼ばれ、森家の人が迎えに来てくれたのかと喜んで姿を現し、鉄砲で撃ち殺されてしまった。

このことから、鉄砲を撃った所を「鉄砲宿」と呼ぶようになった。影取池はなくなってしまったが、元文五年の東海道駅路図にも、かげとり池と記載されている。

みずうみ書房『日本伝説大系5』より要約


周辺少しずつ細部の異なる伝説が伝わるのだが、『大系』の話をベースに中庸な筋としてまとめた。

影取池そのものは横浜市戸塚区にあった(境だが)。天保十二年の『新編相模風土記稿』に「此処にわずかの清水流る。土俗伝て、昔は池あり、池中に怪魚すみ夕陽に旅客の影池中に投ずるを喰ひしより、影取の名残れりと云う。」とあり、話中にもある元文五年の東海道駅路図には、「蛇の池、影取池」と記されている。

この話は「蛇と長者家の盛衰」と「水鏡の禁忌」の二つの面から参照されることになる。とりあえず葬儀に関する水鏡の禁忌に関して興味深い事例を連絡させておこう。

橋に藁を敷く(習俗)
広島県府中市内:旧上下町:葬列が途中の川の橋を渡るときには、必ず橋の上に藁を広げた。