中野長者とその娘

日は、草原から出て草原に入る武蔵野に、東北地方を流浪の末、中野本町の成願寺付近に居を定めた人に、鈴木九郎という武士があった。
九郎の先祖は、和歌山県藤代（海草郡藤白）の荘司である鈴木氏で、熊野神社に奉仕し、源氏の恩顧を受けていた。その鈴木重倫の子重家は源義経のあとを追って平泉に向い、義経の軍に加わった。義経が戦に破れた後、その子孫は奥州を流浪していた。

九郎は、やせ馬を葛飾郡葛西村の馬市で売って大もうけをした。そこで得た金を、浅草観音に奉納してから幸運の芽が出てきた。九郎は、きっと先祖の郷里熊野神社のおかげだと信じて、十二社（じゅうにそう）にも熊野神社を建立した。
九郎は数年にして、近郷に並ぶ者がない大金持になり、「中野長者」といわれ、広大な領地を持ち、豪勢な屋敷に住み、大勢の下男を使っていた。
しかし、山と積まれた財産の隠し場所がないので、思案の末思いついたのが武蔵野の中である。九郎は、金銀財宝を下男に背負わせて行って地中に埋めることにした。
ところがこの下男、帰ってきてこの秘密を漏らしては一大事と、九郎は殺してしまおうと考えた。そこで、淀橋の上にくると、下男のすきを見ては、後から抜き討ちに切りつけて川の中に投げ込んだ。このようにして殺された者は、一〇人にもおよんだといわれている。土地の人たちは、下男の姿が行くときには見えたが帰りには見えないので、この淀橋を「姿見ずの橋」と呼ぶようになった。

しかし、そのたたりはてきめんであった。長者の一人娘が婚礼の式を挙げる夜のことである。婿は高田小太郎という者で、媒酌人は市谷左源太という者であった。
おりから怪しい犬の遠ぼえがすると同時に、熊野方面の森の上から、一群の黒雲がわき出し、切って落したような大雷雨、この時長者の娘は、へびに化身しておどり出し、十二社に向い、ついに池の中に飛び込んでしまったということである。
九郎は、罪もない下男を殺したたたりの恐ろしさを、今さらのように思い起したのである。そのころ、天下に名の聞えた小田原関本の最乗寺住職、舂屋宗能禅師にざんげして救いを求めた。禅師は早速、十二社池の端で祈とうを行なった。そのかいあって、娘はやがてもとの姿になって昇天した。

九郎は舂屋禅師に救われ、一念発起しててい髪し、法名を正蓮と改め、貯え置いた金銀を投げ出し、自宅をこわして建てたのが多宝山成願寺である。また、九郎は供養のため、高田から大久保までの間に、百八の塚を築いたり、中野には七つの塔なども建てた。九郎は六九歳でなくなった。

時は過ぎて、江戸時代になる。三代将軍家光（八代将軍吉宗説もある）が、中野方面への鷹狩りの帰途、この話をきいて、「不吉な話だ、地名をかえたらどうだろう。この川にかかる水車は、大阪の淀川にかかる水車の風景に似ている。これからは、『淀橋』と呼ぶように」ということで、命名されたといわれている。
俳人其角も

あづまにも淀橋あるぞほととぎす

とよんでいる。