岩谷観音とまむし

『歴史的風土のなかの黒羽の民話』原文

八溝地方の野山に錦繍の彩りがみられ、眼下に稲田が開けていました。 お遍路さんが樹霊がこもるツクバネカシを仰いで、長泉池の湧き水で口を漱ぎ、手を浄めていました。
手甲・脚絆・草鞋でさや袋を肩にかけ、数珠と鈴をもち、菅笠姿で金剛杖をついた列は、やがて脚をはやめて観音坂を登っていきました。
間もなく老杉に囲まれた観音堂の宝前に立つと鈴を振りながらご詠歌と経文とを唱えて、いちずに念ずる姿がみられた。
ここは堀之内にある下野三十三所観音霊場の第十番の札所であります。札所めぐりの第一番は日光の清滝観音です。九番が大田原慈眼寺、十番がここ岩谷山で、十一番が今の烏山大平寺です。これは観世音三十三身の信仰に基づく信仰です。三十三番が、国本の蓮華院(廃寺)となっています。

岩谷山のご本尊は、千手千眼観世音菩薩で、無量無辺の衆生をお救いする功徳のあるみ仏であります。善男善女の信者をお護りして、八万四千の病魔を駆逐してくださいます。また悪魔などが近辺に近づくことがないようにしてくださる観音さまとして信仰されてきました。
秋が深まる好日和のなかで、それぞれが同好二人であるお遍路さんは、観音さまのやさしい慈悲の心におすがりし、わが身を改めてみつめ直そうとして、御詠歌を唱和していました。
岩屋観音のご詠歌は
 千代八千代いく世経ぬらん
 岩谷山 長き泉のたえぬこの寺
であります。

堀之内は、早期に開けた集落であります。その地名は、中世の武家屋敷を取りこんだ、お城の内側の意であります。民俗学者の柳田国男は『地名研究』のなかで「堀之内」のことを述べ、中古の武家は、普通砦の中には住まないで、麓に居を構えて農民に平地の田畑を耕させて大地主の立場にあり、農閑期に弓芸など武技を練らせたという。山の上の砦に堀と土手を築いて戦時にはそこに立て籠って敵を防いだのです。そこが要害です。
岩谷観音のある丘陵の上には、今でも岩谷要害の跡があります。土塁と空堀が残され、竪堀もみられます。連郭式であったようです。ここは、三浦介の居館と言い、また八幡館と共に角田氏の拠点とも伝えられています。

むかし岩谷山の辺りに蝮がたくさんすんでいたそうですが、千手観音さまが蝮を得度したのか、信者に危害を与えることがなかったそうです。このことは、『創垂可継』「封域郷村誌」(巻四詢旧)に、「岩屋(谷)山の辺に蝮蛇多く居ると言へども人を不喰、これ往古より言伝て、観音かの蛇の口を結置給ひしになりと土民の伝なり」と記してあります。

このように岩谷山の千手観音さまは、信者の災厄が及ばないようにお護りしたのでしょう。この伝説は、観音さまの霊験があらたかなことをうたい上げたものです。

なお、このようなお話しは、長谷田沢(駒込沢)の三霞(みかすみ)は、かすみがかかり易いところですが、神さまがおすみになる土地(大己貴命をまつる大三輪山=高館や虚空蔵山のこと)の伝えがあって、御神棲(栖)とも誌します。そしてこの湿田(ぬかり)にすむ蛭は信者である稲作人に吸いつくことがなかったそうです。これも石堀の虚空蔵さまと高館に祀ってあった温泉の神さまがお護りしているからだと伝えがあります。

黒羽町『歴史的風土のなかの黒羽の民話』より