松寿弁財天

神奈川県川崎市高津区


昔、夜に宿河原の紋右衛門の木戸を叩くものがあった。しかし、行ってみると誰もいない。空耳かと床に入るとまた音がする。妻も聞こえるというのでまた出てみると、やはり人影はない。

気味悪く思いつつ紋右衛門が戻ると、蚕室から火が出ていた。大声で紋右衛門が知らせ、妻も飛び起き、すんでのところで大火事になる前に消し止めた。木戸を叩いた人が教えてくれたのだ、と不思議に思った。

そして夜が明けると、蚕室の梁に火を浴びた白蛇が死んでいた。紋右衛門は松寿弁財天さまが教えてくれたのだと感謝し、白蛇を手厚く供養したが、以来村には火事がなかったという。弁財天のうわさも広がり、毎月巳の日には参詣者が押し寄せ、八十四軒もの茶屋ができたそうな。

『川崎物語集 巻六』川崎の民話調査団
(川崎市市民ミュージアム)より要約

追記

緑ヶ丘霊園の北端、多摩川の河岸段丘上に今も松壽弁財天はある。天保のころ江戸の人々に相当人気があったようで、お上から茶屋が規制されるほどであったそうな。世田谷のほうの当時の代官の日記に「綱下ケ道しるべ」なる絵図が描かれたりもしている(天保三年)。

もっとも、規制がかかったのは早くも天保四年のことであり、幕府の主導により数年で強制的にこのブームは去ってしまったそうな。養蚕守護という面が天保のころにあったのかどうかは定かではない。

また一方で、同地には「綱下げ松」と呼ばれた老松があり(今はもうない、といより天保に松が枯れ、その跡に弁天が建てられたともいう)、先立つ文政年間の多摩川の洪水の時に松から蛇が綱となって下がり、流される人々を助けた、という伝説もある。