天人女房

原文

この沖永良部島の前の名は、ミカル国といったそうです。このミカル国に、ミカル川という神々しい、きれいな川が一つ流れていました。

その川は、毎月一日と十五日に天のお姫様が降りてきて髪を洗う川でした。いわば神川でした。

ある一日に天女が降りて、羽衣を脱いでそばの松の小枝に掛けて、玉の杓で水をくんで髪を何度も洗っていました。

川の流れるその土地に、ミカルシシメという長者がおりました。長者は、田畑や山を巡視することを常としていました。

ちょうどその日も、田の巡視を終えて、ミカル川のそばに来ると、とても美しい髪の毛が一本流れていたので、それを手に取って計ってみると何と九尺もあった。

長者は、これはと考えつつ、上流へ上流へと行くと、松の小枝にきれいな羽衣が掛けてあった。早速羽衣を松の木から取って、少し上流へ行くと、美しい娘が浴びている。

長者は、天女とわかっていたが、何も知らないふりして、「娘さん、どうしてここで浴びているのですか」とたずねた。天女は、「私は地上の娘ではありません。天で生まれたアムレシシです。」と言った。長者は、天女に「私の家に行きましょう」そして、「タバコを何服もあげましょう」と言って長者は天女を家につれて行きました。

天女はとうとう、タバコで縁づいて、長者の妻となり、やがて五歳と三歳の子供ができました。

ある日、長者はどこかへ出かけて、長者の留守の間天女は機織りをしていました。そうしていると、五歳になる子供が、三歳になる子が泣いたので、あやすために歌をうたいました。

天女は、五歳の子供の歌の文句を聞いて驚きました。歌の文句は「ヨーイヨ童、今日は母が羽衣私は見たよ八本柱の倉の籾の下と六本柱の倉の栗の下で泣きやんだらお前に取ってあげるよ」と歌ったそうです。

天女はこれはシメタと思い、子供たちに「今日は、長者がいないから、倉をあけて羽衣を取って、サー今の内に逃げよう」と言いました。

五歳の子供を背負い、三歳の子供はわきに抱いて庭の周囲を回ってみたが重くて飛ぶことができなかった。五歳の子供を地に立たせ、三歳の子供は座らせてから天女は松の木にのぼった。松の木から下を見ると、五歳の子はあわてて、三歳の子は手を口にくわえて、「あまーあまー」と呼んで泣いていました。

天女が羽衣を一羽あおいだら白雲にのぼり、二羽あおいだら中の雲、三羽あおいだら天にのぼりついた。

天女には七人の兄弟が口をそろえて、「いままでどうしていたのか」と聞くと、天女は「嫌なミカルシシメにだまされて、逃げるにも逃げられず、月日の経つのは早く、五歳と三歳になる子供までもうけました」と言って、また「七人の兄弟で、二人の子供にクレー(運命・器量の意)をつけてください。」とお願いしました。五歳の子供は祝女(ヌル)に、三歳の子供はアムレにしてくださいと何日もお願いしました。

そうして、七人の兄弟が「夏の夏降り(ナチグリ)、雨と思うな、冬の霜立ち(シムダチ)、雨と思うな」と言うと同時に、下界のミカル国は、見る見るうちに海に沈んでしまいました。

二人の子供は、松の木の頂上にのぼってたすかりました。

しばらくして、島が浮きあがってきたので、二人の子供は、浮きあがってきた島に降りて暮らし、欲しい物はなんでも、天にお祈りすれば出てくるようになり、そしてこの島を「沖イラブ島」と名付けたそうです。

『和泊町誌 民俗編』より