大蛇の子

原文

昔、庭田に黒木某という百姓の人が居た。この男はつましい(倹約)人で暮しはよかったが子供ができなかった。

晩秋の頃、夕方に晩飯のしたくをしていると、一人の巡礼が訪ねて来た。よく見ると二十歳くらの柔和なきれいな巡礼であるが、妊娠しているようである。しかももうすぐにでも子供が生れるように見える。巡礼は今夜一晩宿を貸して下さいと頼むので、黒木の妻は「うちのようなところでよかったらどうぞ」と言って快く泊めることにした。晩飯を一緒に食べたあと、巡礼は膝を正して主人に向い、私は今晩お産をしなければならないと言いだした。それを聞いた黒木夫婦は「これは困った、どうしよう」と心配そうな顔をすると、巡礼はにっこり笑って「費用についてはご心配いりません。私は仔細あって巡礼をしていますが、決してあやしいものではありません。」と言いながら黄金十両を出した。「また、産婆のことも心配いりません。お産は一人で始末します。ただお産をする姿は決して見てはいけません。この約束を守って下されば貴方が一生困らぬだけのものは差し上げます。」それを聞いた夫婦は妙なお客が来たものだ、どうも気味が悪いとは思ったが今更断るわけにもいかず承諾した。すると巡礼はくれぐれも見ないでくださいと念を押して奥の八畳の間に入った。主人は床についたがなかなか眠れないのでそうっとのぞいて見ると、あの美しい巡礼は大蛇に変わっていた。よく見ると体は天井に伸び、尾は柱に巻きついていまにも一匹の子蛇が生れようとしていた。この姿を見た主人は一晩中ブルブル震えて眠れなかった。翌朝、巡礼は前の姿で一人の女の子を抱いて静かに八畳の間から出て来た。そして主人の顔をにらみつけ「男のくせに、人間のくせにあれしきの約束が守れない意気地なし、本来なら殺すのだが。」とここまで言ったが、今度は言葉をやわらげて涙を流し「私だって子供は可愛い。この上はいま一つお願いがある。実は人間ではない蛇身で祖母山に主として古くから住んでいる身です。先ごろからこの下の川の主と知り合ってこの子を産みました。昨夜主人に見られたので十年はその見た人に育てられねば再び通力を受けつぐことができない。そこでお願いしたいことはこの子を貴方の子として十年育てていただきたい。」それを聞いて夫婦は断りきれずに承諾した。すると巡礼は嬉しそうに妻女が差し出した八寸膳に大判小判をこぼれる程移し、子供を妻女の手に渡しどこともなく去って行った。十年の歳月はいつの間にか流れ、子供の誕生日が来た。子供は長らくお世話になりましたと感謝し夫婦の心ずくしの着物を着飾り、つきぬ名残を惜しみながら下の川筋の方にと走り去った。夫婦はあきらめきれず二人連で「つらせ渕」まで来た時、子供がはいて出た下駄が渕のうずに巻かれているのが見えた。二人は声をそろえて「二度とは言わぬがいま一度」と叫んだ。するとこれに答えたかのように渦巻の中から今朝のままの姿で水上に立上がり二人に微笑し「お二人様これが貴方がたに見せる最後の姿です。さようなら」と言いながら水中に沈んだ。それでもなおあきらめきれない主人が「人間の姿でなくてもいい、もう一度」と叫んだ。そうしたらまた渦巻きが起り、その中から一匹の大蛇が紅蓮の舌をはきながら岸辺をハッタとにらんだ。そしてあたりが黒い雲に覆われると夫婦は腰をぬかし、べったりと座り込んだ。主人はもつれる舌で言った。「もうよし、もう分った、二度とは言わぬ決して来ぬぞ、幸せで」。見る間に渦はおさまり、うそのような上天気となった。

『東郷町史 別編(郷土事典)』より