大蛇の白骨

原文

志太郡桑野山という村は、大井川の上二十四里余の土地である。天正年中のこと、数千年を経た大蛇が、海へ出ようとして、大井川に蟠臥したので、忽ちに流れを堰き止め川上六里まで一面の水となり、遂に山が崩れ落ちて大蛇を埋めた。

其後年を経て、次第に土砂が流れ去り、大蛇は白骨となって現れた。口と覚しき辺に、手をさし伸ばして見ると上顎に届くばかりであった。数多き肋骨は、これを取って山畑の鹿垣に用い、胴骨をば柿渋の搗臼、又は家々の沓脱の踏台などに利用したが、これも年々諸方に持ち去るので、今は殆ど見ること稀であるという。(煙霞綺談)(前項大蛇参照)

 

類話:大蛇

桑野山村(東川根村)の北山は登り五十町許の高山である。嶺は千者山に連なっている。昔この地向い遠江の國榛原郡千頭村の幽谷地中に大蛇が潜んでいた、或時大地震動し、強雨頻りに降、盆を傾るごとく、烈風樹木を折摧き、大蛇あらわれ、大井河の西の山を裂いた。処が、高山の頂が震い崩れて大磐石が転倒して大蛇の上に重り落ちて大蛇を押潰した。山中の洪水は家を押潰し押流し、死するものも多かった。後世其所より蛇骨を出した。上藤川村化成院の厨司、遠江國家山村三光寺の厨司は大蛇の車骨を踏台とした、碓のようであった。大蛇の負いかえした山は遠江の國千頭村の内澤間村の上、寸俣川の渡本より村角までの山である。化成院にあった、蛇骨は予が同郷の人若き時目前に見たという。今はない。万光寺にあったのは其所の里人が川原でひろい、寺の履ぬきにした。或年、此台の辺の厨司の椽の床下から小蛇が多く出たので、寺中の僧俗怪しんで踏次を取揚げたら小蛇が幾疋となくうごめき、楹の下にも小蛇、これを掃き集めたら二箕許もあったという。小蛇は踏台と共に大井川に流したという。(大井河源紀行)

小山有言『駿河の伝説』
(安川書店・昭18)より