太田の大蟹

原文

奈良本の太田がまだ池だったころの話です。そのころは、池にたまった水が入赤川にながれ、村の田んぼのいね作りによくつかわれていました。

この入赤川には、「太田の蟹」といって、たたみ二十じょうぐらいのこうらをした、それはそれは大きな蟹のぬしがすんでいました。

ふだんは、あまり人目につかない大蟹も、いなほがずっしりする秋の夕ぐれになると、どこからどうしてやって来るのか、太田にあらわれては、村人たちがたんせいこめて作ったいねを、大きなはさみで切りたおしてしまうのです。ときには、田んぼに大きなあなをあけてしまうので、いね作りができなくなることもありました。

「ゆうべ大蟹が出て、吾作さんちのいねはぜんぶ切られてしまったそうだ。」

「となりの田んぼは、大きなあなをあけられたってよ。」

と、大蟹が出たつぎの日は、村中が大さわぎです。

しかし、あまりにも大きな蟹のために、そのたたりやしかえしをおそれて、村人たちはどうすることもできませんでした。

それでも、たびかさなる大蟹のいたずらに、村人たちはいらいらして、こんやこそ、にくき蟹めにひとあわふかせてやろうと、村の中でも「ごうのもの」といわれている作兵衛さんをせんとうに、大蟹たいじに出かけました。

ところが、大蟹を見ただけでおそろしくなって立ちすくんでしまい、だれもが家までにげ帰るのがやっとのことでした。そして、家に入ると、布団をかぶり、ガタガタふるえてねこんでしまったのでした。

それからは、だれも大蟹たいじに行こうとするものはありませんでした。

村人たちのこまりはてたようすを見て、庄屋の太郎左衛門さんは、何かよい考えはないかとなやんでいました。そして、しばらくすると、すっくと立ち上がって、かもいにかけてあった代々家につたわる弓矢をもつと、太田の池へと出かけていきました。

池につくと近くの木かげにじっとかくれて、今か今かと大蟹をまっていました。そのうちに、なまぐさいにおいがあたりにただよい、ザワザワという音が聞こえたかと思うと、大きなつめをくらい空に広げた大蟹があらわれたのでした。

太郎左衛門さんは、

「こよいこそ、めにものみせてくれるぞ。村人たちのためにも……。」

と、ころあいをみて、よういしてきた弓矢を大蟹めがけて、キリキリと引きしぼりました。

(南無、わが家のまもり神さま。この矢で大蟹をうちたおす力をわれにあたえたまえ。)

と心にいのり、ヒュッと矢をはなつと、矢はみごとに蟹のこうらにつきささりました。いきつくひまもなく、二本めの矢をはなつと、それもみごとにつきささったのでした。

大蟹はくるしみもがいていましたが、夜明け近くズシンという音を立ててたおれ、死んでしまいました。

しずかな朝がきました。村人たちは、ゆうべ大きな地ひびきが聞こえた太田の池にあつまると、びっくりしてしまいました。あのにくき大蟹が池にたおれて死んでいるではありませんか。それを見て、どぎもをぬかれ、こしをぬかすものまで出ました。

ところが、大蟹のまわりには、何百何千という子蟹がむらがっていて、大蟹の死をかなしんでいるようにさえ見えました。

村人の中には、にくい大蟹をひとうちして、今までのしかえしをしてやろうとするものもいましたが、太郎左衛門さんは、

「蟹とはいえ、子蟹からこんなにしたわれているのを見ると、かわいそうできのどくだ。もう死んでいるのだから、うつのはやめてください。」

と、村人にいって、やめさせたのでした。

それから、太郎左衛門さんと村人たちはそうだんして、森の中に蟹のほこらを作ることにしました。そして、ほこらがまつられているところを「蟹が森」と名づけたのでした。

こうして、奈良本の人々は、かわいそうな子蟹のことを思い、今でも子蟹をとって食べることはしないということです。

文化協会むかしばなし編集委員会
『ひがしいずむかしばなし 第1集』
(東伊豆町文化協会)より