奈良本の太田が池だったころ、池から入赤川が流れ出、稲作りに使われていた。ところがこの入赤川には太田の蟹という二十畳もある大蟹の主がおり、秋になると田にやってきて、実った稲を切り倒してしまうのだった。田に大穴をあけることもあり、そうなると田を作ることもできなかった。
村人たちは恐ろしくて立ち向かうことができず、皆が困った様子を見て庄屋の太郎左衛門が立ち上がった。太郎左衛門は伝来の弓矢を持つと太田の池へ向かい、姿を現した大蟹と対峙した。家の守護神に祈り放った二本の矢は、見事に大蟹の甲羅を貫き、大蟹はもだえ苦しんで死んだ。
翌朝、大蟹の死体に仰天した村人たちだったが、積年の恨みとさらにひと打ちしようとする者もいた。しかし、大蟹の周りには無数の子蟹が群がってその死を悼んでいるように見え、気の毒に思った太郎左衛門はそれ以上打つのはやめさせた。
そして、森の中に蟹の祠を作り祀った。これを蟹が森という。奈良本の人々はかわいそうな子蟹のことを思って、今でも子蟹をとって食べることはしないのだそうな。
今は太田という字は見えないが、奈良本の南端のほう、図書館と赤川の間のどこかが舞台と思われる。小地名としては太田蟹ヶ森という記述も見るが、蟹の祠が現存するのかどうかは知らない。
ともあれ、伊豆にあって村里を困らせる水のヌシが蟹である話の典型であるかと思う。同東伊豆町の稲取のはさみ石は松崎・西伊豆町の大滝の巨蟹が作ったなどというが(「兵太の瀧の巨蟹」)、もっと近くにもヌシの大蟹はいたのだ。
この話は、殊にその討伐される様子が竜蛇のヌシが討伐される際の筋に近いものといえる。なぜ伊豆がそう対象に蟹を好むのかは現状不明だが、竜蛇の位置を蟹が代替している事例と見てもよいだろう。