浄蓮の滝は伊豆第一の名瀑である。高さ二十五米の絶壁を落下する狩野川の水は、大池のような滝壺に、紫黒色の渦をまいて、見るからに一種凄惨な気を漂わせている。
むかし、この滝の近くに青木某という農夫があった。──彼の家も、田も畑も滝のそばにあった。静かに日が暮れて、あたりの物音が消されると、遠くで鳴る雷のような滝の響が聞えたし、畑で土を耕すときは、すぐ足の下で気味悪く慄える地底の呻きが感ぜられた。しかし、それらは「物惨さ」でも「畏怖」でもなかった。なんとも言えぬ「力強さ」であった。
ある日、彼は一人で、滝の近くの畑を耕していた。麦が、かなり成長して、真向いの鉢窪山はいつの間にか青草で美しくふくらんで見えた。頭の上では雲雀が鳴いていた。
彼は一心に鍬をふるった。一人仕事の心安さに黙々と土を耕した。
日がやや斜めになった頃、彼は鍬を杖にして背を伸した。そしてゆったりと腰をおろして煙草入れを取り出した。その時である。どこからか一匹のたくましい女郎蜘蛛が彼の足の上にはいあがってきた。──が、すぐ一条の太い糸をひいて去った。彼が幾度か吹殻を泥まみれの掌でたたいたとき、ふと気がつくと無数の糸が足をまいていた。蜘蛛は糸をひいては去り、又かえってきた。彼は朗かな気持で、蜘蛛の巣糸の営みをながめた。そして、その糸をふみにじる気にはなれなかったので、そのまま手近の桑の古株にまきつけてやった。
彼が煙草入れを腰にさして、再び立ち上った時、嵐のような滝の響が、耳朶をうった。それはたしかに聞き慣れた水の音ではなかった。──風もないのに梢が揺れた。
「はて、尋常事ではない。」
彼がそう呟いて空を仰いだとき、再び大地が怪しく揺れたと思うと、蜘蛛の糸をまきつけた桑の古株が、めりめりと抜けた。
「や、やっ!」
彼は思わず鍬の柄を固くにぎった。蜘蛛だ、蜘蛛だ。女郎蜘蛛の仕事である。桑の古株は、するすると怖ろしい目に見えない力に引かれて行った。
彼は慄える足を踏みしめて、桑の株を追った。青黒く渦をまいている滝壺がすぐ目の下にあった。黒い水、白い泡、魔物のように荒れ狂う淵は忽ち大きく口をあいて、桑の古株を呑みこんでしまった。
彼は、はじめて我にかえった。氷のような冷たい感じが、背筋を伝わった。
「怖ろしいことだった。あの時俺が糸をはずしておかなければ、あの桑の株が俺の身体だった。」
彼はそう思った。──再び畑へ戻って、桑の株の深くえぐられたあとをみた彼はもう鍬を振う勇気はなかった。
その後、浄蓮の滝の主は女郎蜘蛛だという噂が高くなった。危く滝に呑まれそうになった彼は再びあの畑へ寄りつかなくなった。畑の麦は枯れて草や木が茂った。
それから幾年のことである。他國から渡って来た一人の樵夫が滝の古木を伐っていた。滝の怪異を知らない樵夫は平気で仕事をした。千年の古木が日毎に伐り倒されて行った。
ある日、樵夫は誤って秘蔵の鉈を滝壺に落した。──たかが一丁の鉈ではあったが樵夫には、あきらめ切れない秘蔵の鉈であった。彼は、すぐ着物をぬいで滝壺に踊りこんだ。
「もし、もし。」
やさしい女の声が聞えた。思わず顔をあげると妖婉な若い女が岩蔭から半身を現して、片手に樵夫の落した鉈を握っていた。
「あなたの落した鉈は返してあげますが、私のことを口外するとあなたの生命はありませんよ。私はこの淵の主の女郎蜘蛛……」
樵夫は女の手から鉈を受け取った。そしてそのまま夢心地で水の上に浮かび出した。小半時経ってから樵夫は滝の岸の岩に抱きついている自身の姿を見いだした。手にしっかりと鉈を持っていた。
樵夫は滝の怪異をまざまざと見たのであった。それから里人に、それとなく滝の怪異をたずねると、古老の口から青木某が見たという不思議な女郎蜘蛛の話を聞いた。
「ふむ、それはたしかだ」
樵夫はそう言って深く感に打たれた。けれども自分の見た怪異については一言も語らなかった。
ある冬の夜、樵夫は里の茶店で酒をのんでいたが、居合せた人々が滝の怪異について話し合っているのを小耳にはさんで、思わず膝をのり出した。そして、とうとう自分自身が、まざまざと見た女郎蜘蛛の精について口を辷らせた。
「口外すると生命はないと言われたが、これがどうして黙っていられよう。」
樵夫は、そう言った。そうして、したたかに酒をあおった。
──その夜、樵夫は、忽然とあの世へ旅立ってしまったので、里人は今更ながら滝の主、女郎蜘蛛の精に怖れを感じて、決して滝に近づかなかったと言う。(上狩野村)