まぼろしの寺

原文

鉢窪山の裾がなだらかに広がっているこのあたり一面は、茅におおわれ、土地の人々は茅野とよんでいた。

ある年のこと、このあたりは梅雨を過ぎても雨が降り続き、たまに止んだ時でも霧が厚くかかり、太陽はけだるいような弱い光を投げかけるだけであった。作物は当然不作で、人々はただ天を仰ぐだけであった。連日の雨で谷あいの川は水量を増し、轟々と音を立てて流れていた。この川の上には三階滝とよばれる三層の大滝がある。高さは上が五丈、中が七丈、下は二十丈あるといわれている。

ある日、一人の旅の僧がこの川筋に沿って、道を切り開きながら登って行った。下の大滝の横を通り、中の滝あたりまで来ると、山はますます深く、うっそうたる原始林は両岸の絶壁まで覆い、空はその上でかすかに細い線を描くという容易に人を近づけない神秘的な所である。僧はようやく上の滝に近づき、深い緑をためた滝壺をじっとみつめ、次第に視線を上にあげた。すると滝の上の落ち口に、一匹の大きな蟹がいるではないか。甲羅が一メートル以上もあろうか。それはまっ黒い苔でおおわれていた。大蟹は足をふんばり、はさみを振り上げ、天に向かってときどき泡をふいた。そのたびに泡の中から煙のような妖気が立ちのぼり、低くたれさがった雨雲と結びついた。

僧は、断崖を静かにはって滝の上に出た。そこは滑らかな石だたみのようになっていた。僧は大蟹に近づくと、手に印を結び、心を寂静の境地におき、なにかを一心に念じ始めた。間もなく、大蟹の口から泡が止まると同時に霧が晴れ、明るい日ざしが岩を照らし始めた。大蟹はゆっくりと落ち口まで歩いていき、水に足を入れたかと思うと、深い滝壺にどうと落ちこんでいった。僧はじっと滝壺の水面をみつめていたが、それっきり蟹の姿は見えなかった。

僧が大蟹を封じこめた上の滝を、それから土地の人は「かにだる」と呼ぶようになった。そして滝の上には不動明王を祭り、大蟹の精が再びでてこないことを祈った。またその僧のために「かにだる」のすぐ近くに寺を建てた。その寺は浄蓮寺とよばれ、何代か続いたがいつしか消滅してしまった。

豆州志稿には「廃浄蓮寺=山中ニ遺址及門前畑ノ名存ス」と記されているが、現在は浄蓮・門前の地名は残っているが、遺跡はどこにあるか全くわからない。ただ、浄蓮寺という寺があったと伝えられているのみである。

 

いつの頃からか、茅野の人たちは雨乞いの行事をやるようになった。日でりが続いて困った時に、部落の男衆はふだんは寄りつかない「かにだる」に集まり、滝の上から滝壺に石を投げ入れたり、崖をおりて滝壺の中を大勢で泳ぎまわり水をかきまわした。それから不動さんの前で火を燃やし、酒を捧げてお祭りをしたそうである。雨乞いは午後から夕方にかけて行なわれ、この行事が最後に行なわれたのは、大正の初めごろだそうである。そのとき、不動さんはすでに現在の位置(下田街道より浄蓮部落に向かって三、四十メートルおりた所)にあったが、いつ移されてきたかは明らかでない(山本精二・山崎義雄氏談)。

この雨乞いの行事は、不動明王の許しを得て、「かにだる」に眠っている大蟹の精をよびさまし、雨雲をよんでもらうためにしたのではなかろうか。

現在祭られている不動さんには、明和二年(一七六五)五月の字が刻まれ、ひっそりと木蔭に鎮座している。(宇田一慶記)

天城湯ヶ島町文化財保護審議委員会
『天城の史話と伝説』(未来社)より