まぼろしの寺

静岡県伊豆市

鉢窪山の裾には昔茅がよく生えており、茅野と呼ばれていた。昔、その年はどうしたわけか梅雨を過ぎても雨が降り続き、太陽は見えず、土地は不作に見舞われた。人々は天を仰ぐよりなかったが、一人の旅の僧が川筋に沿って、道を切り開きながら奥へと登って行った。

川の上には三階滝という三層の大滝があり、僧は原始林の中を絶壁を這い下の大滝、中の滝を過ぎた。そしてようやく上の滝に近づき、そのうえを見やると、滝の上の落ち口のところに甲羅が一メートル以上ある大きな蟹がいた。

真っ黒い苔で覆われたその蟹がはさみを振り上げ、天に向かって泡を吹くと、その泡から妖気が立ち上り、低く垂れさがった雨雲と結びつくのだった。僧は断崖を這って滝の上に出ると、手に印を結び、一心に念じ始めた。すると、大蟹の口から泡が止まり、霧が晴れ、明るい日差しが岩を照らした。

大蟹はそのまま滝壺に落ち、もう浮いては来なかった。このことから上の滝は「かにだる」と呼ばれるようになり、近くに不動明王が祭られた。蟹を封じた僧のために近くに寺が建てられ、浄蓮寺と呼ばれた。寺は何代か続いたがいつしか消滅してしまったという。今はその遺構も分からない。

天城湯ヶ島町文化財保護審議委員会
『天城の史話と伝説』(未来社)より要約

以降、この淵「かにだる」は雨乞いの淵としても知られたそうな。滝壺に岩を投げ込んだり、普段近寄らぬその滝壺で泳いだりというものだったそうだが、泡を吹いて雨霧を呼んでいた大蟹を呼び覚まそうということだろうか、と同資料は書いている。

そして話の三階滝の下の大滝がかの有名な浄蓮の滝となる。つまり、女郎蜘蛛のヌシが語られた深秘の滝の上には、雨霧を呼んでいた大蟹のヌシがいたというわけである。しかも、まぼろしの浄蓮寺の創建伝説ということでは、蟹の伝説のほうが主たるものといえる。

浄蓮の滝の女郎蜘蛛の伝説というのは、蟹の伝説に取り巻かれてあるのである。ここが非常に興味深いところだ。

それが三層とはいえ同じ滝の話として蟹と蜘蛛があったというのは、できすぎだというほどに重要だ。浄蓮の滝の伝説は、蟹の話と併せて見るべきものなのだ。