大沼の龍神

原文

むかし東田中(御殿場市)のほとんどは、広い広い大きな沼であった。浅いところは葦が生いしげり、まわりには田んぼが開けていた。それは十二世紀の初め(一一〇〇)ごろのことで、人びとは大沼といって船で向う岸まで渡ったものである。

そのころ大森氏の一族で大沼親清という領主が、ここに住んでいた。そこで、かれの館のあるところを大沼御所と呼んでいた。

この一族は、この大沼を切り開いて田んぼにした、かれらの先祖は大中臣氏といって、伊勢(三重県)の伊勢神宮の神官をしていた。そこで、ここの土地を神宮の領地として、とれた米を納めていたが、そうした土地を御厨と呼んでいる。このように神宮領になっていると、そうでない土地にくらべて年貢が少なくてすんだ。

そんなことで、一族は大沼のほとりにあたる沓間に神明宮をたてて、天照皇大神をお祀りすることにした。

ある年のこと冬も近づき、この大沼にたくさんの鴨が舞いおりてきた。たまたま領主は馬にのって沼のほとりを通った。葦の間をくぐりぬけて泳ぎまわる鴨をみて、かれは伴の者に言った。

「あれを見い、めずらしく鴨がたくさんおるのう」

「はい、ことしはいつもの二倍もいますかな」

「うん、あしたは鴨狩りをしようぞ」

といいながら、その日は主従ともそのまま帰館した。

つぎの日、親清は弓矢をととのえ、家来たちをつれて大沼までやってきた。ところがどうしたことであろう、あんなにたくさんいた鴨が一羽も見えなかった。

かれは不思議なこともあるものだと思って、家来たちにたずねた。すると家来が言った。

「との、何でも噂によると、この大沼には沼の主が住みついているとかであります」

「ほう、沼の主がのう」

「それは大きな龍で、それが鴨を食いつくしたのでしょう」

「なに、龍とな、ええいっ、何とか退治せねばなるまい」

領主と家来たちは、その日に獲ものを一つもとらず館へ帰っていった。

それからしばらくして、一人の里人が館の者に話した。

「領主さまは、鴨狩りができなかったそうですなあ、むかしから龍は柿渋が大きらいだと聞いておるがのう」

「また、どうしてなんだい」

「渋がつくと鱗が閉じて、体の自由がきかなくなるからよ」

これを聞いた家来が、領主に告げると。

「なんと、それではさっそく国中の柿渋を集めよ」

と、領主は家来たちに命じ、まもなくたくさんの柿渋が用意された。そうして沼のまわりから流しこまれた。

やがて夕暮れ近くになると、だんだん黒雲がわき起こり、冷たい風とともに小雨さえ降ってきた。すると、とつぜん沼のまん中から水しぶきがあがり、世にも恐ろしい龍が苦しげにいく枚もの鱗を落としながら黒雲にのって、二の岡めざして飛び去っていった。

「おお、何と恐ろしいことだ」

「大沼の主さまは、きっと峠をこえて芦の湖へ身をかくされたのであろう」

里の人びとは口ぐちに言いながら、いつまでも南の空を見ていた。さすが剛気の領主も、この異様なありさまに驚き鴨狩りのことなどすっかり忘れて、そうそうに館に引きあげていった。

その冬、寒さはきびしかったが、ふしぎと雪は降らなかった。人びとは、そんな年は雨が少くて水に困るものだと心配した。

やがて春を迎えたが、いっこうに雨は降らず、くる日もくる日も肌寒い風がふき空は曇っていた。そのうちに、大沼の水が少し減ってきて、沼のふちでは水のかからない田んぼがでてきた。

里人たちは、何か不吉な感じがしてきた。

「沼の主をひどい目にあわせたので、怒って水をくれなくなったのだよ」

「そうよな、竜神様がいなくなったので、このあたりは雨も降らねえだ」

「もう弥八とこの田んぼは干あがって、田植えができなかったと」

「それは気の毒に、でも、いつおらの田んぼが干あがるかわからねえ」

こんな話の中で人びとの心配は年ごとに深くなっていった。そうして数年後には、あれほど大きかった大沼も、すっかり水が涸れてしまった。

いままで沼の水を引いていた田んぼも乾き切って、稲が一粒も実らなくなってしまった。それまで、およそ二十町歩(二〇ヘクタール)の田んぼが開けていたが、大沼が干あがってしまったので、領主は年貢が入らなくなった。

大沼館には大ぜいの者が召しかかえられていたのに、領民が貧しくなるとともに、大沼家もだんだん衰えていった。

やがて大沼親清たちは、その大沼の地を捨てて竹原(長泉町)へ移り住むようになった。けれども親清の子どもたちは、近くの沓間や神山(こうやま・御殿場市)に住みついた。また隣の菅沼(小山町)に移った者もいた。

そのまま残って二の岡に家を構えた者もあり、大沼の内側が海のようになっている所から、その一族は内海と名のるようになったという。

昔、この大沼を船で渡ったが、船をつなぐために船着き場を設けた。いまも国道一三八号線ぞいに便船塚という地名がのこっている。

 

大沼の龍神

御殿場・小山・裾野一帯を総称して御厨地方といった。御殿場駅の裏から鮎沢・東山にかけて大きな沼があって人びとは大沼と呼んでいた。

それは広い湿地帯で、その大沼から流れ出る川が沢を作っていて、そこを鮎沢と呼んだ。やがて人びとは湿地帯を利用して水田を開いていった。

そのころ甲駿(甲斐・駿河)の国司に任命された藤原惟康は大森(裾野市)に住み、この大沼あたりを支配していた。かれのおじにあたる藤原季兼は熱田神宮の大宮司をしていた。そんな関係で、この大沼一帯は伊勢神宮の領地として寄進したものと思われる。

このような土地を御厨といったが、ここに大沼鮎沢御厨の荘園が形成されたのである。後世になって単に御厨というようになったのである。

惟康は藍沢氏を名のったが、葛山・山戸林や御宿の姓も出ている。また子の親家は大森氏を、親清は大沼を名乗ったが、河合・菅沼・神山・沓間などの家をおこした。

勝間田二郎『続 御殿場・小山の伝説』より