護摩壇

原文

志太郡青島町内の瀬戸新屋字天ヶ谷、水上字鳥越、南新屋字曲り山、池廻り、山廻り等七ヶ所に護摩壇があったとの事である。径三四間饅頭形に築かれたのだが、今は大方畑に開墾せられ、其の形を残すものは僅か一箇所であるというがそれさえも其の形ははっきりとしていないという事である。

其の護摩壇の由来というのはこうであると。

昔水上村といって東は南新屋西は烏帽子山瀬戸新屋六地蔵のあたり、周囲二十六町余りはいつも夏になると大井川の水が溢れて一面の太洋となりわずらわされた。しかもこの所は木町から東光寺へ出る最も大切な道であって、旅人は皆悩まされたがどうする事も出来なかった。

所が諸国を行脚されていた一人の僧侶が、ここに来て其の水をひかせて旅人を通させようとされて護摩をたかれたので、これによって水はたちまちのうちにひいてしまった。その為に前にのべた七ヶ所の護摩壇が設けられたのであると。

 

又これと同じことで他の伝説がある。

昔この地方が夏になると一面池になってしまった。その池の中には毒蛇が住んでいて其の地方の人々をなやましたので里の人は困っていた。所が宇陀上人がこの地方にまわって来られたときに、之を聞いてどうにかしてその毒蛇を退治したいものだと念じられ、其の末に前の七ヶ所の山上即池の廻りとなる所に壇を築き不動尊の像を安置し護摩をたいて仏に祈り其の池の水をすっかり干あげてしまったのである。所が其の毒蛇は悪鬼に化して藤枝の鬼岩寺にとんで行ったという。そこで水干不動と名づけて万福寺を此処に建てて奉安した。前の七つの護摩壇は宇陀上人の護摩をたかれた所であると。(杉原ふみ)

静岡県女子師範学校郷土研究会
『静岡県伝説昔話集』(谷島屋書店・昭和9)より