曾我兄弟の墓

原文

五郎が鷹ヶ岡できられてから間もなく、このえのき沢(下流は凡夫川)に大洪水がありました。そのとき上流から、十郎のなきがらが流れてきたので、里の人々がひろいあげて、五郎の墓のそばへ葬りました。のちに福泉寺は、洪水のために流されたので、今のところへ移り、十郎と五郎の墓もうつしました。その福泉寺は今では曽我寺といっています。

曽我寺の境内には、兄弟のお墓のほかに、大磯の虎御前と化粧坂の少将の、辞世の歌をきざんだ石碑があります。その歌は、

 露とのみきえにしあとをきてみれば尾花がすゑに秋風ぞふく(虎御前)

 捨つる身になほ思ひでとなるものは問ふにとはれぬなさけなりけり(化粧坂の少将)

本堂の中には、兄弟の木像と、位牌があります。

 高崇院殿峰岸良雪大居士(十郎)

 鷹岳院殿士良富大居士(五郎)

むかし、墓の近くに一本の柿の木があって、その根元に頭の形が、木瓜(ぼけ)の実ににた蛇が二匹すんでいました。あるとき近所の人が通りかかって、その蛇をみてびっくりしました。その人は、

「気味の悪い蛇だ。」

といいながら、棒でたたき殺して、裏の凡夫川に流してしまいました。しばらくしてから友だちに、何気なくその話をしました。すると友だちは、

「おまえはとんでもないことをした。その二匹の蛇はいつもあの墓のそばに遊んでいるよ。あれはたしかに十郎と五郎の化身だ。頭のもようが木瓜の実のようだったというのは、それは曽我の紋所だよ。つまりイオリモッコウだ。」

といわれてその人は、急に身体中が寒気がしました。そしてその晩から高い熱をだして苦しみました。

友人は、

「なんとかして謝らなければ、きっとたたりがあるぞ。」

といいます。その人は無理におき上って、曽我兄弟の墓におまいりし、自分が蛇を殺したことをあやまって、祠をつくって兄弟の墓をその中に入れて、ていねいに供養しました。そばにある柿の木に、その翌年から、種子が木瓜の実ににている柿がなるようになりました。寺では、兄弟のたましいが、柿の実にのりうつったのだといって大切にしましたが、二、三十年前に枯れてしまいました。

鈴木富男『富士市の伝説と昔話』より