富士七巻の大蛇

静岡県三島市

今は昔、三島宿に一人の按摩がいた。道端の小屋で旅人の肩や足をもみさすって貧しい暮らしを立てていた。この按摩の所へ夜になると小僧さんが遊びに来るようになった。ところが一月あまりも続けてくるので、按摩も怪しく思い、素性を尋ねた。

すると小僧さんは、自分は幾百年とこの山を七巻にしてきた大蛇なのだという。そして、近頃は往来が開け、人馬に踏まれ蹴られて窮屈なので、近々大海に出ようと思う、その際は大雨を降らせて一帯を泥海にするのでだれも助からないだろう、といった。按摩だけは逃げるように、と小僧さんはいい、ただし他言すれば命はない、とも戒めた。

按摩は悩んだが、数百の命には代えられない、と村の人々にこのことを知らせた。村は大騒ぎとなり、鐘太鼓を鳴らして巻狩を行い、蛇の嫌う鉄の杭で山を取り回した。すると俄に大嵐となったが、大蛇は苦しんでうねりながら死んだという。

数百人の村人にはさわりはなかったが、按摩は可愛そうに死んでしまった。村人はその義侠に感じ、按摩の像を石に彫って立て、今でも献花参詣を怠らないという。

石井研堂『日本全国国民童話』
(同文館・明44)より要約

三島の話でタイトル通りなら富士山を七巻にしていた大蛇ということになるが、そうなるとスケールの印象が合わない気もする。より三島に近いいずれかの山のことなのかも知れない(以降の三島の昔話集には見ない)。今でも参詣がある(研堂の頃には)とのことだが、該当する社寺祠がどこにあるのか分からない。それが分かると富士山そのものか否かも分かるだろうが。

特に、こちらでは按摩が東海道を行く旅人の疲れを癒すねらいでこの地に住まっていることが語られている点が大変参考になる。その箱根と裏街道(矢倉沢往還)となっていた足柄峠(矢倉岳)に同じ話があるのは、街道沿いという点と関係があるのか、と思っていたが、その理由ならば「按摩」であることが本来であると見てよくなるかもしれない。

富士山に嫉妬する大蛇の話と、法師の前に出てくる大蛇の話はそちらでは分けたが、三島でも七巻半のモチーフが語られているのを見ると、正しくつながる要素のある話なのかもしれない。そうだとすると、おそらく「蛇抜け」という点が強調されることになるだろう。