老婆龍蛇と化す

原文

麻機村東村に石橋彦左衛門、一説には瀬名村の某、それはどうでもよいとして……そこの老母六十余歳、残暑あたりで床に就いた、孫娘の小葭は父に死なれ母に死なれて頼るのはこの祖母唯一人であるから心痛一方でない、薬よ医者よと介抱余念なかったが、験が見えない、この上は神仏の冥護をと、朝まだ星のあるのに床を抜け出でて身を清め、駿府の浅間社に参詣をと足を盗んで宿を抜け下人一人を伴に川合の渡しに急いだのである。渡船につつましやかに膝を崩さぬ容姿、河伯、見入ってか、風なきに川浪起り舟覆って娘は川中深く吸込れた。下人仰天、大声あげて救助を求めた。聞付けた村人馳せ集って川名かを探したが見当らない、只岸を走って徒に騒ぐのみ。この小葭は小菊の子で小菊は新田義貞の弟脇屋右衛門佐義助の妾、義助は駿河の守護で時めいた頃、その容色を垣間見て側近く仕えさせ寵愛一方ならず、小菊は妊娠したが、義助は足利のために没落し、小菊は泣く泣く里に帰り身二つになったが、肥立悪しくて死亡し、孩兒は老婆の膝下に育ぐまれて成人したのである。小葭の横死は観応二卯年七月であったという。

村人は騒ぎに騒いだ、心利いたもの舟を出して川中を探し日の暮方に池に出で、何の気もなく汀の穴を覗くと、無残や五臓を抜かれ水腫れとなった小葭の死体が浮き上っている。舟中に拾い上げて老婆に宙を飛んで知らせた。老婆は悲歎に暮れたが、悲憤の余り夜の更くるを待って家を出で、渡に急ぎ、身を躍らして川中に潜入して生きながら大蛇となり、敵河伯と闘ってこれを退治した。

その翌年、この池に霊草が生じた、一本の草の長さ二十間に及び、四方に延びた葉の大さは一丈にも余り、蓮の葉に似て茎に茨がある、その実は鞠の如く、それを割ると椋の実のようで一つの草に百八宛結び、その実を採って糸に貫き富士禅定の珠数となした、この草を法器草といい又胡蓮ともいうた、百姓はこれを採って土中に埋め腐するを俟って掘り出し黒き皮を剥いで朝夕の食事に摂る。その味好美、凶年には殊に多く結ぶ。菰が又夥しく生ずる。これを莚に織り、稲の肥料にも用い、菱も採り魚も釣れる、それで世渡りするものも多くなった。これは老婆の念願であると仏氏はいうている。

村中は弔うもののないこの老婆を愍んで、一週忌の追善を営んだ、僧を招いで大施餓鬼を執行した。

川中に舟を浮べ池の中へ漕ぎ出して、水中の衆生仏のために流灌頂、蠟燭数千本に火を点じ、これを板に乗せて流した、読経半頃、風一ト吹き、池水俄に渦巻いて蠟燭板を風車と廻わす、一ヶ所消ゆれば残る二ヶ所は光りを増す、すると水上に形が顕われ、我は池に沈んだ老婆の亡霊である、御法事に預り、怨敵を退治して、池の水神となった、池中の災難を除きその上千人の食物を出すことは永く変ずることはないと一礼述べて水中に影を没したと、これも仏氏の言。

それから応永年中に、有渡郡大谷村曹洞宗瑞現山大正寺の石叟禅師の許に一老女が現じて、禅師に接見し、鱗を生じ龍蛇となったが、有難き御論示で悟道を得て鱗は落ち仏地に入り三熱の苦みを逃れたと喜び、菩薩戒を授けられた欣びを述べた。禅師は「清龍院法運智泉神女」と戒名して位牌を本堂の仏壇に据えた、それと聞いた村民は和尚を招じて池の汀の小山の宮居に造営を加えて、諏訪大明神とあがめ祭り今日に及んでいる、これも仏氏の言。どこまでが真か、これは縁起として伝えられている。

小山枯柴『駿府の伝説』
(安川書店・昭15)より