成瀬が淵の女

原文

田本の何がしの家に、昔一人の美しい召使いの女があった。そのころ、その女はすでに主人の胤を宿していた。ある日、女は常のように井戸を覗いて、じっと水の中に映る自分の姿を眺めていた。その日は女の顔に何となく悲歎の色があった。しばらくは井戸の中の己が姿と何事かを語り合ってでもいるように思われたが、やがて黒雲が空いちめんにはびこると、見る間ににわかに大雷雨となった。真黒く降りしきる雨の中に稲妻が走って、その間に、女の顔がちらと見えたまま、女の姿はいずこへか掻き消すようになくなってしまった。

その事があって、数日経ったある夜のこと、行く方知れずのその女が主人の夢枕に立った。「いつまでもこの身を不憫と思うて給わるなら、遠江国成瀬の淵の岸へ来て、大きくわが名を呼んで下され」と言う。

不思議な夢の告げに、その家の主人は怪しみながらも気に懸るままに、女を尋ねて遠江国へ下った。そして捜し当てた成瀬が淵の岸へ来て、言われたままに女の名前を紙に記して淵へ沈め、大きく女の名を呼んでみた。すると忽ち岸辺に美しいその女が現れて来て、二人は不思議にもその淵の畔でめぐり合った。二人がやがて別れる時、女は、男にしばらくうしろの方を向いていて、水の中へ帰って行く私の姿を見て下さるな、とたのむ。

男は言われるままにしばらくはうしろを向いていたけれども、心もとなさそうにそっと振り向くと、十二本の角に波を掻き分けながら、見るも怖ろしい大蛇の姿が金色の鱗を閃めかして淵の底へ沈んで行った。

田本の里にはそれから凶事ばかり続いた。村の人たちはヌシのたたりを恐れ、蛇の姿を石に刻んで神に祀り、毎年盛んなお祭りをして、その霊を慰めるようになってから蛇のたたりは幸いにしてなくなった。

やすおか「ふるさと文化のむらづくり」実行委員会
『泰阜村の民話集』より