霧が滝の大蛇

原文

下清内路より黒川の渓流に沿って登ること一里半、赤子の橋の辺りを行商につかれた足を引きながら飯田へ急ぐ男があった。日は丁度西の山へ入ったばかりで、明るい中に伊賀良の里へ行けると安心しながらも心がせいていた。

橋を渡って一町と行かぬ時、どこからともなくなま温い風と共になんとも知れぬ良い匂いがして来た。行商人は思わず立止って匂いのして来る方を、あちらこちらと探した。すると今自分が向って行く峠の方からである。なんだろうと立ちどまっていたが、思いなおして歩きだすと匂いも近くなる。

すると突然半町ばかり前に、美しい衣装をつけた立派な二人の若い男女がこちらへ下りて来る。行商人は二度びっくり、その場に立ちすくんだ。それは二人の若い男女が余りにも美しく、着ている衣装もまた見たこともない高貴な品であった。

その美男、美女は行商人のそば迄来た。男の方は身体が悪いのか顔は青白くすき透るようで、しかも、苦しそうに美女の肩によりかかっている。

美女はにっこりとして行商人に問いかけた。それは金の鈴を振るような声で「この近所に霧が滝と云う処があると云うがどの辺りか」とたずねた。行商人はただおどおどと今渡って来た橋を指し、「あの橋より川に沿って十町ばかり登るとそこにある滝だ」と教えた。

そして恐る恐る「今じぶん霧ガ滝などへどうして行くのか」と問うと、女は「実は良人が悪者のために足を疵つき、話に聞くと黒川の上流にある霧が滝の水で洗えば全快すると云うことなのではるばるとたずねて来た」といい、行商人に礼の言葉を述べ、彼女はつけ加えて「これから町へ行くのであろうが、必ず峠迄行く途中で後へ振り返ったり横見をしたりせずに行け」と言い行商人をすりぬけて行った。

魂をうばわれたように茫然としていた彼は我にかえって歩き出したが、二人が余りにも美しかったため、ちょっと振り返った。その時彼は「あっ」と云ったまま腰をぬかしてしまった。今の今迄見たことも聞いたこともない美装に身をつつんだ美男・美女が、こともあるに胴廻り尺五寸か二尺もあろうかと思われる大蛇となり、道辺の草を押し倒して霧が滝を目ざして行くところであった。

「あっ」とさけんだ彼の驚き声に、一匹の大蛇が振返って真赤な長い舌をぺろりぺろりと出し滝へ向って行った。幾時間の後、かれは気が付いた。石割辺りの人達に看病さていたが、身体全体が火のように熱く、それでふるえていたが間もなく絶命した。

その後伝えて「霧が滝の大蛇」といい、この近所で美しい男女に行き合ったら振返って見るなといい伝えられている。

『清内路村誌 下巻』より