霧が滝の大蛇

長野県下伊那郡阿智村

下清内路より黒川に沿って上り、赤子橋のあたりを行商の男が飯田へ急いでいた。まだ明るいうちに伊賀良の里へ行ける塩梅だった。そして橋を渡って一町と行かぬとき、生暖かい風と共に良い匂いがして、行商人は思わずその匂いの元を探した。すると、半町ばかり前に、美しい装いの美男美女が歩いていた。

美男美女は行商人のそばまで来たが、男の方は身体が悪いらしく、顔は青白く、苦しそうに美女の肩によりかかっていた。美女はそこで行商人に、良人が足を疵つけ、話に聞くと黒川の霧が滝の水で洗えば全快するというので来た、その滝はどこだろうかと問うた。

行商人はこの時間に、と訝りながらもここよりなお上流に十町ばかりだと教えた。美女は礼を述べ、加えて、峠を越すまでは降り返ったり横見をしないようにといった。魂を奪われたようになっていた行商人は、我に返って歩き出したが、やはり二人が気になってちょっと振り返ってしまった。

すると、美装の美男美女が、胴廻り二尺もあろうかという二匹の大蛇となって、草を押し分け滝を目指していくのが見えた。思わず声を上げた行商人に気付き、一匹の大蛇が振り返り、真っ赤な舌を出して見せた。

気を失った行商人は石割あたりの人に看病され、一時気がついたが、身体は火のように熱く、やがて絶命したという。それより、この近所では、美しい男女に行き合ったら振り返って見るなと言い伝えられている。

『清内路村誌 下巻』より要約

黒川に沿って上ると、飯田城主の幼い嫡男が息絶え、その泣き声がするという赤子淵があり、その上に吊橋の赤子橋が今もかかっている。さらに上ると霧ヶ滝があるそうだが、近々の中部電力の堰堤建設で景色も変わってしまうようだ。

その道筋を、今は見えないが、高鳥屋山の北を回って上り、伊那盆地に下りる道があったのだろう。となると、美男美女は滝のあるその上の方から来ているはずで、いまいち両者の位置関係がよくわからない話だが、ともあれこういった大蛇の話が清内路にはある。

振り返るとその正体が露見するというのは、大蛇に限らず変化のものの特徴であり、葬礼などの習俗で振り返ることを禁忌とするものが今なお多いのも一脈通じる話だろう。しかし、その相手が美男美女の雄蛇雌蛇だった、というのは珍しい話だ。

ちょっと、にわかには比較すべき話を思いつかない。境界の峠ということだろうか、くらいには思うが。また、高鳥屋山を東に越えると「茂都計(もっけ)川」という川名が見え気になるが、不詳。