蛇峠の池

原文

波合村の南に当って高く聳え立つ山が蛇峠(じゃとうげ)で、その山の頂に昔大きな池があった。その池にはヌシの大蛇が住むと云われて蛇が池と称ばれて居た。

ある日、峠の方から見慣れぬ小娘が下りて来た、そして村の庄屋の家へ入って行った。

『峠の池ではながなが御厄介になりました、今日から深見の方へまいるので、お暇乞いにきました、御機嫌ようお暮しなされませ』と云う。

庄屋の家では不思議な事に思った。村の中にこんな娘はない筈だ、それが馴れ馴れしく暇乞いに来たのはどうした訳か、と、誰れにも合点がゆかなんだ。家の人たちは門口へ出て、その小娘の後姿の去って行くのを見守って居ると、波合川へ架かった橋の途中で娘の姿がふっと消えた、その途端、川の瀬音が俄かに高まって大水が流れ落ちて行くように見えた、それで初めてその小娘は蛇が池のヌシの化身と知れた。

その日大下條村深見の里へ大きな池が一つ出来た。蛇峠のヌシの大蛇は娘の姿をして深見の池へ越して行ったのであった。

蛇峠の池には水が今でも静かに眠って居る。それを今では雨乞い淵と称ぶ。旱魃の時、此の池の水を汲み来って神に供え雨を祈ると必ず雨が降る。村の人たちは水出を怖れて平常は一切この池の水を汲まぬことにして居るそうである。

岩崎清美『伊那の伝説』
(山村書院・昭8)より