蛇出しが池

原文

昔波合村字恩田の一人の百姓、家の裏手にある沼に此の頃草が沢山に茂って来たので、ある日それを刈り取って来て馬の飼秣にやった所、その馬が草を食べると俄かに苦み出して、やがて血を吐いて死んでしまった。人たちはそれを見て、此れは人の怖がるあの沼の草を刈って食べさした祟りであろうと云って恐ろしがった。

翌朝その百姓が不図裏へ出て見ると、昨日の古沼が何時の間にか大きな池になり、青い水がひたひたと岸を打って湛えて居た。百姓は此れを見てびっくりし、此れは沼に住むヌシの仕業にちがいないと始めて気がつき、早速その畔に祠を建て、ヌシの蛇を神様に祀る事になった。これが即ち蛇出しが池である。

蛇出しが池のヌシは神様に祀られて、それから暫くの間は何事もなかった。それからして何年か経ったある夜、池のヌシが其の百姓の枕神に立った。

『蛇出しが池では長い間お世話になった、此の頃は体が池一ぱいにひろがって住み憎いから、蛇峠の上へ新しく池を作り、明日はそちらへ越したいと思う。今夜はそのお分かれに来た』

と云う。百姓は不思議な夢を見た。翌朝、夜の明けるのを待ちかねて池の畔へ行って見ると、いつもは静かな池の面が今朝は何となく騒がしく、岸一ぱいの水は横波を打って、水の底から何物か湧き上って来るような気配であった。波は見る間に次第に高まって来て、やがて一と揺れ逆さまに揺れたかと思うと、池の上にヌシの大きな姿が見えた、百姓が眼をまわして居る間にヌシは其のまま蛇峠の方へ黒雲に乗って消えて行った。ヌシの居なくなった蛇出しが池は、再びもと通りの沼に変り、草の生え茂るに任せてある。

岩崎清美『伊那の伝説』
(山村書院・昭8)より