深見の池を生んだ鍋

原文

深見の池の水底には今でも大木が折り重なって沈んで居る、これは池のまだ出来ない昔、此処が大きな森であった證拠だそうな、此れは其の頃の話である。

昔その森の陰に一軒の百姓家があった、夜になると嫁と姑とで繰る絲車の音が寂しそうに聞えて居った。

ある晩のこと、嫁が丁度まき上げた木綿の紡錘を姑に渡すと云って、折から自在釣に白い湯気を立てて居た鍋弦の下をくぐらせると、不思議や鍋が俄かに大きな声で唸り出し、それと同時に其の紡錘がしっかりと鍋弦に喰い着いて取れなくなった。二人はびっくりして怖わ怖わそっと其の鍋を裏手の森へ投げ捨てたまま、後をも見ずに逃げ帰った。恐ろしい一夜の明けるのを二人は一睡もせずに待ち明かした。

夜が明けて朝の太陽が東の山を離れる時、いつも障子に映る森の影が今朝に限って見えないのを怪しみ、恐る恐る窓を開いて見ると千年の森が一夜の中に何処へ消えたか形も見えず、而かも其の跡に大きな池が一つ、岸一ぱいの水をたたえて小波を打って居た。

不思議な此の夜の話を聞き伝えた村の人たちは、怖ろしがって早速池の傍に祠を建てて神様に祀った。それからしては忘れても紡錘は鍋弦の下をくぐらせるなと云い伝えて居る。

岩崎清美『伊那の伝説』
(山村書院・昭8)より