音羽の池(オトボー池)

原文

国道一五三号線を北に進むと、久保と木下境の右手に養鱒場があり、その北隣り辺りは、今、住宅が建ち並んでいます。昔、この辺一帯は菰や葦が繁り、雑草のはびこる湿地帯になっていて、ところどころに底の深い大小の池が散在していました。池の端を歩くと、土のやわらかさに足を取られ、その足を泥から引き上げることが、なかなか出来ないほどの所でした。ある所からは、水が盛り上がって、激しく湧き出るという、そんな場所もあり、たくさんの魚が住んでいたともいわれています。

この池にいつのころからか、「音羽の池」という美しい名前がつけられ、そして、この池にまつわるこんな話が伝えられています。

この村に大変魚釣りの好きな人がおりました。この音羽の池で、魚はもちろん、大きな鯰までも釣って、大喜びで帰ることもありました。

ある日のことでした。昼休みに、また釣りにでも行こうと、釣りのことを楽しみに思いながら、家の前の畑で仕事をしておりますと、一人の見かけぬ僧が通りかかり、話しかけてきました。その僧は、「魚たちは池を守る大事な生き物だ。釣りもほどほどにし、特に大きな鯰を釣ることはぜひ止めなさい」と言うのです。もちろん信仰心も持ち合わせているこの村人は、僧の言葉をなるほどと思って聞きました。昼も近い時刻でしたので、村人はこの僧を家へ連れて行き、話しながら粟飯をいっしょに食べ、そして、僧は帰って行きました。

この村人は、一、二日は釣りに行くのをがまん出来ましたが、三日目にはどうにもがまんが出来ず、「少しぐらいの魚なら許しももらえよう」と音羽の池へ釣りに出かけました。その日は、いつになくたくさん釣れ、帰る間際には、今まで見たこともない大きい鯰を釣り揚げました。僧の言葉もすっかり忘れて、大喜びで家に帰りました。

さっそく鯰から料理しようと思い、押さえても思わずほくそ笑むほどのうれしさで、初めて見るほどの大きな腹に、包丁を当てました。すると、どうしたことか、鯰の腹から、たしかに三日前、あの僧にご馳走した粟飯がご馳走した時の量と同じほど出て来ました。その村人は一瞬驚き、あわてましたが、まさか鯰が僧になって出て来るはずはないと思い、鯰は夕食のご馳走となり家族みんなで食べました。

次の日、大きな鯰を釣った手ごたえと、あぶらののったおいしい味のことが忘れられず、この村人は再び音羽の池に釣りに出かけました。願いどおり、またも大きな鯰が針にかかりました。大喜びで釣りあげようとしましたが、糸はぐんぐんと池の中に引き込まれていきます。とうとう竿も、そして竿を手離さずに、必死に握っていたこの村人も、ずるずると池の底深く吸い込まれるように沈んでいってしまいました。

その後、この池の淵に近づく人があると、どこからともなく、「オトボーさらば」という妖しげな声が聞こえてくるようになりました。それがどういう意味か、誰にもわかりません。しかし、誰の耳にも「オトボーさらば」と聞こえるのです。そんなことがあって、この音羽の池を、誰いうともなく「オトボー池」とも言うようになりました。ある時は、泳ぎ上手な子供が、この池で泳いでいて、溺れ死んでしまったという話しも言い伝えられています。

こうして、村人たちは、この池を恐れながらも大事に守り、他の川でももちろん、むやみに殺生をすることがなくなりました。そして、池に近づいても「オトボーさらば」という妖しい声を聞くこともなくなり、平和な村に戻りました。

この場所は、今でこそ住宅も建つようになり、まわりの田んぼも他の場所と特別変わりがなくなっていますが、「かつてこの辺りは、沼田で、田植えや稲刈りをするのに、泥に足をとられないよう、長い梯子を田んぼに渡して仕事をし、苦労したもんだ」と、その思い出を古老は語っています。

『南箕輪村誌 上巻』より