釜無川ぞいの地名縁起

原文

私たちのまわりには、たくさんの地名や川の名前があります。遠いむかしからよび継がれているその一つひとつに、それなりの意味があり、調べてみますと、なるほどと思える大変面白いお話があります。その一つに、釜無川ぞいの地名は、多くが古代のできごとに由来して名づけられているようです。

 

むかしむかし、古代のころのお話です。

倭武尊が、諸国をまわられたおりのこと。甲州から諏訪の地へ入られると、川端で白髪のお婆さんが泣いていました。武尊は哀れに思われ、「どうして泣いているのか」と問われますと、「私ゃあ嫁に来て、じきにお旦那がここらあたりで大蛇に連れて行かれてしまってなあ。それからちゅうもの、毎日毎日ずうっとここで、帰って来るのを待ってるだあれ。どんねえ待っても帰って来ねえ。ほいで、神さまちゅう神さまにお願えして、大蛇を退治してくれるお方は来ねえかと、こうして待ってるだあれ。お旦那は、へえ死んでるだかなあえー」と、さめざめと泣いて答えました。

武尊は、気の毒なお婆さんにかならず大蛇を退治すると約束して、北に向かって進みました。

そんなことから、お婆さんが泣いていた川には、「夫を恋いつつ、久しく老いるまで待っていた」ということで、“恋夫老久(こふろく)川(現・甲六川)”〈表1〉と名がついたそうです。

北に進んだ倭武尊は、また川辺で泣き悲しんでいる老夫婦に出会いました。理由をたずねると、「一人娘と家財道具をみんな大蛇にかっぱらあれてしまって、どうすりゃあいいずらか」と涙ながらにうったえました。武尊は多くの人々を困らせ、悲しませる悪い大蛇を絶対討たなければならないと、決意も新たに、さらに北に進みます。

老夫婦がこまごまと多くのことを百も二百も話したことから、その川を“百百(どど)川”〈表2〉とよぶようになりました。また百百川の川むこうの“矢の原”〈表3〉は、大蛇が人々に向かって矢をはなち、困らせたことからその名がついたといいます。

さて、やっと大蛇に出会った武尊は、勇敢に矢をはなち戦いましたが、大蛇の抵抗が激しく、両者ともゆずらず勝負がつきませんでした。

武尊が大蛇のすきをみて切り掛かり、やっとのことで傷を負わせた場所を“切掛(きっかけ)川”〈表4〉とよび、大蛇の血で真っ赤に染まった矢を捨てた場所を“赤矢”〈表5〉とよぶようになったということです。

傷だらけの大蛇は、ものすごい勢いであばれながら北へ逃げて行きました。たいそう危険なので、武尊は、家来が連れていた年老いた母親を心配して、安全な沢に隠れさせた所を“母沢(ははさあ)”〈表6〉といいます。

大蛇はだいぶよわってきましたが、退治しなければもっと人を苦しめるだろうと心配されて、一休みしてさらに追いかけて行くことにしました。武尊は休息し、川の水を飲み、「さて」と立ち上がりました。その川を“立場川”〈表7〉といいます。

そしてとうとうあばれる大蛇を討ちとることができました。大蛇は地中深く埋めることにしました。その埋めた場所は瀬沢の上で、蛇を地中に埋め込んでしまったことから、“蛇込(じゃごみ)”〈表8〉という名前になりました。武尊はちょうど対岸に大きな石があったので、これを蛇を埋めた目印としたそうです。

この石はなぜか“盗人岩”〈表9〉といい、長野県の最古の地図に残っています。

また、大蛇を討ちとった場所があまりにも血が流れ真っ赤になったので、“血ヶ原”〈表10〉と名がつきました。

血ヶ原の裏を流れる川の瀬音がもの悲しく、悪い大蛇ではあったが人々は哀れに思い、“音歌悲(おっかひ)川(現・乙貝川)”〈表11〉というようになりました。

武尊は、大蛇が人々からうばった財産を、後々なにかあったときに備え、大きい川の奥深い場所に隠し、人々にけっして近づかないように言いおき、その場所を「ご飯を炊く釜が無いので人が住めない」という意味で“釜無川”〈表12〉と名づけました。また逆に、七つの滝壺がある場所に住むようにと言い残したそうです。その場所を“七ツ釜”〈表13〉といい、かつて人々が住んでいた場所と伝えられています。

また、釜無川の谷の入口に、この人々を守護する人たちが住んでいたと伝えられる“長者屋敷”〈表14〉という地名も残っています。

武尊が無事に大蛇を討ちとれたのは、諏訪明神の加護によるものと、大武川の地にお宮を建立し、まつりました。この神社は、“諏訪明神中之社”〈表15〉であり、今の大武川の氏神さまです。

そのとき、建立の祝いの祭りは平らな岡に机を並べ、烏帽子姿で盛大にとり行ったそうです。そのため、平らな岡を“平岡”〈表16〉、机を並べたのが“机”〈表17〉、烏帽子に似た岩のある所に“烏帽子”〈表18〉との名がついたといわれます。

武尊は都にもどる際、この地は神さまが代々守護してくださるだろうと言い残して行きました。そのことから、“神代”〈表19〉との名がついたといわれています。(小池一敏さんのお話)

富士見町民話の会『富士見高原の民話』
(長野日報社)より