釜無川ぞいの地名縁起

長野県諏訪郡富士見町

古代のこと。倭武尊が諸国を回り、甲州から諏訪に入ると、川端で老婆が泣いていた。訳を訊くと、大蛇に旦那を連れて行かれ、以来ずっとここで泣きながら待っているのだという。武尊は大蛇退治を約束し、北に向かったが、それでそこの川を「恋夫老久(こふろく)川(現・甲六川)という。

進むとまた老夫婦が泣いており、一人娘を大蛇にとられたという。武尊は老夫婦から百も二百も話を聞いたので、そこを「百百(どど)川」と呼ぶようになった。また、その川向こうから大蛇が矢を放ったので、「矢の原」という。

やがて大蛇と出会った武尊は苦闘の末やっと切りつけたが、その川を「切掛川」といい、大蛇の血で矢が赤く染まった所を「赤矢」と呼ぶ。また、その時武尊は年老いた母を安全な沢に隠れさせたので、そこを「母沢(ははさあ)」という。

傷ついた大蛇は逃げたが、それを一休みした武尊が再度追うために立ち上がったところを「立場川」といい、とうとう大蛇を討ち取り、これを埋めたところを「蛇込(じゃごみ)」という。対岸に大きな石があり、それを目印とした。が、その石はなぜか「盗人岩」ともいい、長野最古の地図にもある。

武尊は大蛇討伐は諏訪明神の加護によると、大武川に御宮を建立したが、これが諏訪明神中之社であり、その祝いに平らな岡に机を並べ、烏帽子姿で祭りをしたので、「平岡、机、烏帽子」という名がある。そして、武尊はこの地には代々神の守護があるだろうといい都に去ったので、「神代」という名がついた。

富士見町民話の会『富士見高原の民話』
(長野日報社)より要約

話の中核となりそうな諏訪明神中之社は山梨県北杜市大武川に鎮座されるが、釜無川の対岸長野県側に平岡、机、烏帽子、神代の地名が並ぶ。大蛇討伐の舞台はそこより北へ、立場川を遡ったほうとなる(蛇込は富士見台付近か)。

引いた他にも、「血ヶ原・音歌悲(おっかひ・乙貝)川・釜無川・七ツ釜・長者屋敷」などが大蛇討伐にちなむ地名なのだという。それらはもちろん付会なのだが、甲斐信濃の境で、このような土地のフォーマットが試みられたというのは面白いだろう。

また、引いた話では「大蛇が矢を放った」場所などがあり、いかにも「ヘビ」の話というよりまつろわぬ民を征服した話という風なのだが、こういった東夷征伐の伝説としては、安曇周辺の坂上田村麻呂による魏石鬼八面大王討伐の話が有名だ。