大蛇の弓

原文

むかし、日本武尊が碓氷峠を越えて越後の賊を討ちに行ったとき、ある山の中で日が暮れてしまったので、一軒のあばら屋に泊まることになった。

「こんな山の中で、なんのおもてなしもできなくて」

腰のまがった老人が寝床をつくってくれたので、尊はぐっすり寝入ったが、夜中に、「ビューン、ビューン」という弓を引く音に目を覚ました。思わず戸を開けて外に出ると、あの老人が、腰をしゃんと伸ばして弓を引いている。尊が弓を借りて引いてみると、自分の弓の三倍も強い弓だった。

尊はその弓がほしくなって、ゆずってくれと頼んだが、老人は、

「お貸しすることはできますが、お上げするわけにはまいりません」

と言う。尊はその弓を借りて越後に行き、賊のたてこもっている城を攻めたが、普通の弓では、高い山の頂にある城まで矢が届かない。

そこで尊は、老人から借りた弓に火のついた矢をつがえ、城に向かって放った。矢は白い煙の尾を引きながらまっすぐに飛んでいき、しばらくすると、城から火の手が上がり、見る見るうちに焼け落ちてしまった。

尊は、帰りに老人の家に行き、この弓のおかげで賊を討てたことの礼を言ってから、この弓をなぜゆずってもらえないのか、そのわけを聞かせてほしいと頼んだ。すると老人は、しばらく困った顔をしていたが、

「お教えしましょう。では、ついて来なさるがいい」

と言って、裏山の奥深く尊を案内した。するとそこには、美しい湖が広がっている。尊が岸辺に降り立つと、老人の姿は消え、湖はとつぜん波立ち、中から大蛇の頭が二つ現れた。

「その大蛇に、腰の帯をといてくわえさせるがよい」

はるか遠くから、厳かな声がした。あの老人の声だ。尊は言われるままに、腰に結んでいた紫色の帯をといて、大蛇に向かって投げた。大蛇は、二つの口で帯の両端をくわえて、ザバッと立ち上がった。それは、頭が二つ、体が一つの双頭の大蛇であった。

「これがあの弓の正体だ」

空で声がしたとたん、大蛇は頭を振って帯をいっぱいに引っ張った。それは、湖を二つに分けるほどの弓になった。

「どうじゃな。これは、わしの使いをしてくれる大蛇でな、湖の護り神じゃよ。わっはっはっはぁー」

大きな笑い声が森の中に消えていった。そこは、諏訪明神の社の森であった。諏訪明神は湖の神に命じて、弓に姿を変えさせ、日本武尊を助けたのだった。

「諏訪大明神様、お力をお貸し下さり、まことに、かたじけのう存じました」

尊の声は、湖にこだました。

『限定復刻版 佐久口碑伝説集 南佐久篇』
(佐久教育会)より