昔肥後に阿闍梨興円という偉い和尚がおり、より多くの人を救おうと発心し、信州善光寺に月参することとした。海を渡り、山の峠を念仏を唱えながら越え、ひと月も欠かさず和尚は善光寺参りは続けられた。
和尚さんは肥後を出て四日目に必ず泊るところがあったので、そこは四泊と呼ばれるようになった。ある夏の昼下がり、四泊にあった美しい池にたどり着いた和尚は、ほっと一息ついて、いつものように池の中を覗き込んだ。
すると、いつもは涼しくなる体が急に火がついたように熱くなり、どうすることもできなかった。仕方なく一心に念仏を唱えたが、水の面に映る和尚の体はみるみるうちに蛇の姿に変わってしまったのだった。
そしてそのまま池の底に和尚の蛇は消えてしまった。それから池は四泊の池と呼ばれ、畔の松に木には旅の笠が掛けられ、「此の国は肥後の阿闍梨の四泊や 其の名も高き笠懸の松」と鮮やかに記されていたという。
白樺湖の北に大門という地区が伸びているが、その北端に今も四泊の小字が見える。この話が採られた時は、すでに池は田になってしまっていたようで、今はもう見えない。
衆生を救うべく(というか救われる弥勒下生まで生きるべく)竜蛇となった、というのは遠州桜ヶ池に入り大蛇となった皇円阿闍梨の伝として有名だが、それに近いものがある。肥後の興円とは不詳だが、音は同じと思われ、皇円は肥後の出身である。
そうであるならば、桜ヶ池の話を小県を舞台に語ろうとしたもの、なのだが、一点気になるところもある。『長野県史 民俗編』にもこの話はあるのだが、その池そのものが見つめる者を蛇に変えてしまう恐ろしい池だった、ゆえに肥後から来ていた坊さまは蛇になってしまったのだ、とあるのだ。
そういった話だったならば、池の恐ろしさを語ったもので、桜ヶ池の筋になったのは後付けだ、ということになるかもしれない。また、そうなると佐久の双子池の伝説との類似を考えておきたくなる(「双子池」)。