甲賀三郎・岩村田

長野県佐久市

昔、立科山の龍宮渕に甲賀三郎が住んでいた。世間に出ようと、藤梯子で崖を登って、この世界に達した。ところが、妻が大切な鏡を忘れたというので、三郎が取りに戻った間に、兼ねて三郎を邪魔者にしていた兄が、藤梯子を切って三郎が上がってこれなくしてしまった。

数年が過ぎ、第二の妻が三郎に握り飯を四十九こしらえて与えたので、日にひとつずつ食べてこの世に出ることができた。元の妻は三郎を思い発心して真楽寺で読誦していた。三郎は再会を喜んで睦まじく暮らしたが、ある日、里人が三郎が大きくなりすぎたので諏訪湖へ遣ろうと話しているのを聞いた。

心付いて我が身をみると、大蛇になって境内の池に棲んでいるのだった。大いに驚き諏訪の海へ行こうと真楽寺の池を出るも、振り返るとようやく首が抜けたくらいだった。この時里人が、三郎まだ近いぞ、といったので、そこを近津といい、郷社近津神社がその跡だという。

そこから二里ほど行って振り返ると、ようやく尾が真楽寺を出るところだった。それでそこを尾垂山という。後に寺が建立され、今も大きな寺院である。こうして三郎は終に諏訪の海に入り、神に祭られることになった。

『日本伝説大系7』(みずうみ書房)より要約

概ね他に見る筋を踏襲したものだが、この話には非常に興味深い点がある。それは、三郎が龍宮渕の住人であったと語るところで、そこから登ることを「この世界に達する」と表現していることだ。額面通り取るなら、三郎も妻も初めからこの世の人ではなかった、ということになる。

「諏訪縁起事」では鹿の生肝で作った千枚の餅、類話では地下の姫(第二の妻)のこしらえた九つの餅を食べながら地上に出て来る三郎だが、ここでその餅の数が四十九であるというのも重要だ。すなわち四十九日であり、あちらからこちらへの転生の過程であることを端的に示している。

このあたりは、中世縁起の枠組みで語られる「諏訪縁起事」が土地の昔話となっていく過程で、地下の国々をめぐる意味、三郎が大蛇となる意味などが次第により素朴な里と異界の越境のモチーフに変化していく様であるかもしれない。