蛇柳

原文

柳の下へ出るのはいつも幽霊ばかりではなかった。川路村に昔貝鞍が池と云う大きな古池があって、主の大蛇が住むと云うので人たちは皆怖がって居た。夜になって其の池の畔を通ると必ず何かの変事があるので、今は其処を通る者もなくなった。ある日一人の侍が来てその話を聞き、拙者がその変怪を退治して進ぜようと、真夜半頃一人でその池の畔へ来て見ると、朧月夜の光の下に池の水がささ波立ててひたひたと岸を打つ、その向うに当って薄黒く、物の佇む気配が見える、近付いて窺うと若く美しい女が一人、岸の彼方に小手をかざして招いて居る。話に聞いた池の主、魔性の女は此れかと知った侍は、腰の一刀抜く手も見せずに斬り付けた。女は見事に真二つと思いの外、刀は何の手応えもなく空に流れて女の姿が消えた。そしてその後にはただ風にそよぐ波の音ばかりで何の異変もなかった。侍は不思議に思いつつ其の夜を待ち明かした。その翌朝、急いで池の畔へ来て見ると、人を斬った跡形は更になくてその代り、岸辺の太い柳の枝が見事に切り落とされて居た。池の主が岸の柳に姿を替えて美女となり、夜な夜な通りがかりの人たちに戯れて居たのであった。蛇柳と称ばれて居るのが即ち此れである。

岩崎清美『伊那の伝説』
(山村書院・昭8)より