烟た池の女

原文

下伊那の南端、遠山の上村字中郷の山の中腹に昔大きな池があった。樹立ちが四方を取り囲んで昼でさえも小暗く、碧く湛えた水は深く沈んで、何時とはなしにヌシの大蛇が住むと云われて居た。

ある年の秋、此の山の木を伐って畠を開こうと、百姓たちは村中総出をして此の池の端へ集まり、片はしから木を伐り初めた。太いのは里へ運んで材木にし、残りの落葉や小枝を搔き集めて小山にしたのへ八方から火を付けた。白い綿のような煙が風に靡いて池の面を包み、朦々と広がって渦巻き上る。百姓たちが火を遠巻きにして取り囲み、山の上の方を見て居ると、今しも小山の崩れるような濃い煙の巻き立つ上に、両手で顔を被うた女の姿がちらと見えた。煙の上に乗った其の女の体を再び煙が一ぱいに包んで渦巻くと、その煙の中に声がして『ああ烟たい』と叫ぶ。

やがて烟が消えて広々と見渡す焼跡に百姓たちは狐にでも魅まれたような顔をして呆然として立った。今まで真っ青に見えて居た大池は何時の間にかなくなって、其処には落ち葉の灰がうづだかく積み上って居る、そして不思議や山の頂上に新しい池が一つ。

百姓たちはヌシの仕業だと云って恐れ、急いで池の畔へ社を建てて池神社と称え、池のヌシを神様に祀った。今日ではそれが雨乞の神様になって居る。

岩崎清美『伊那の伝説』
(山村書院・昭8)より