不開門=不明門 長野県上田市 昔、霊泉寺に中国から慶書記という絵描きが来て、天井に本物そっくりな龍の絵を描いた。龍の絵には魂が宿り、毎晩抜け出しては、嵐を起こし田畑を荒らすので、和尚は龍の胸板一枚を外し、門を固く閉ざして出られないようにした。 ところが、その後寺が火事になり、逃げることのできない龍の悲しそうな声が聞こえてきた。そこで胸の板をはめてやったところ、黒雲が現れ、龍は雲に乗り逃げて行ったという。このようなことがあり、寺の門は「不開門」と呼ばれ、開けると血の雨が降るといわれた。 丸子民話の会『丸子の民話をたずねて』より要約 霊泉寺にはまた「稚児が淵」の伝説があり、その淵名を付けたのは仏国国師だった(霊泉寺は鎌倉建長寺末)というようなことだったが、その仏国国師がいたころに慶書記が来て、龍の絵を描いたのだという。胸板を外したのも仏国国師ということになるだろう。不開門(あかずのもん)は今も門だけが残され、話が伝えられている。 こういった話は釘付けの龍などといい、木像の龍のこととして語られることが多い。しかし、東信ではそれが絵画の龍とされるきらいがある。臼田のほうにも狩野元信の龍の絵が怪異を起こした話がある(「滝観音堂の建立」)。 ちなみに、開かずの門というモチーフがある話としては、武州国昌寺などがそうなのだが(「国昌寺の開かずの門」)、龍は葬列の棺の中身を喰うという異変を起こしている。あるいは霊泉寺にもそういう話はなかったか、と気にしておきたい。 ツイート