さつき姫

山梨県南巨摩郡南部町

南北朝、吉野の朝廷が絶えた時、父を戦で失ったさつき姫が、家臣六人に守られて南朝再興の募兵のため東に逃れ、駿河から富士川をつたい、万沢村に入った。横沢の豊かな清水のある家で休息し、手にしていたサツキの枝を池のほとりにさし、水源を求め池ノ山へ登ったという。

山頂近くにあった大池のほとり十恩寺に宿を借りた姫だったが、前途に望みのないことを悟り、池に身を投じてしまった。見えぬ姫を家臣たちがあたりの林に捜すと、池の中央が盛り上がり姫が立ち現れ、皆は仲良くこの地に永住せよ、と告げて水中に消えた。

それから大嵐が来、池の水があふれ、その流れに乗って大蛇が泳ぎ下って行った。家臣たちはそれが姫の化身だと悟った。大蛇は富士川に入り駿河の海へ向かったが、徳間川・福士川・富士川沿いにはそれから美しいサツキが咲くようになったという。

その後六人の家臣は福士川の小久保に居を構え、小久保六軒と呼ばれたが、今でも六戸の戸数のまま続いている。山上の池は枯れて美林となったが、中央と思しき所に細い湧水があり、里人が祀った祠がある。

加藤為夫『富士川谷物語』
(山梨日日新聞社)より要約

南部町福士となる。十恩寺は不明だが、家臣が住み着いたという小久保に最恩寺というのはある。また、池ノ山のふもとの根熊というところに池大神が祀られており、山上の姫の池跡の祠はその奥宮にあたるそうな。

土地を代表する伝説で、六月には南部町を挙げてのさつき姫祭もある。しかし、周辺大変いろいろの派生話があり、また内容も「北条尊氏」の専制の時、とか、南北朝時代の姫が大蛇になって鎌倉権五郎の手勢を洪水で攻めた、とか、はてはさつき姫は源頼朝の姫であるとか、おおらかに語られる。

大まかには、引いた話のように、南朝の姫が下向・入水し大蛇となって富士川を下った、小久保の六軒はその家臣の末である(おそらくこの部分が根本)ということになる。

また、はじめ清水で休息した際にさしたさつきも根付いて古株となっていたというが(もうない)、そのさつきの根本にも長いこと大蛇が住み着いていたという。さつきの花とともに、やはり大蛇という点も重要であるようだ。おそらく、小久保六軒の守護の竜神という話なのだろう。

ところで、『峡南の伝説』に気になる記述がありそのまま引くと「さつき姫の龍神は、富士川の岩根に、清く咲くその花は龍身姫の名に因みて佐津岐と呼ばれる気高かき其の姿……久遠に尽きぬ龍化の名花と讃えている」とある。龍身とさつきの間に直接的な関係があるのだろうか。皐(沢)ということか。