竜になれなかった大蛇

原文

身延山の東斜面の中腹に、近藤山という山がある。その山のすそのに昔、上塩沢という集落があり、そこにある寺の住職が夢を見た。

美しい女が「自分は近藤山に千年住んだ大蛇だが、これから海に千年住んで竜になりたい。山の下り道の沢にある二本の桧の大木が邪魔で、山を下れないので、上塩沢の者たちに切らせてくれ」という夢だった。

住職が里人にこの話を語り、桧の伐採を頼むと、里人はきかず「そんな大蛇に通られたら大へんだ。山に封じ込めておくのが一番いい」と言って、その桧を伐り倒し、それを使って頑丈な「しがらみ」を作って、沢をふさいでしまった。間もなく、数日豪雨が降り続き、沢はごうごうと鳴り響く濁流に変じた。

大蛇は海に下る時節が来たと大喜びして、濁流に乗って沢を下って来たが、この「しがらみ」にぶつかってどうにもならず、右往左往してもだえ狂った。

その時、山上から巨大な石が転げ落ちて来て、大蛇はこの巨石の下敷きとなって死んだ。これが今、身延町清住の北端にある「大盤石」とも「蛇石(じゃいし)」とも呼ばれている巨石である。

その後、北からの「駿州往還」がこの巨石の側を通ることになり、道下の上塩沢の人たちが、ここに上って家を建て、道祖神も石のそばへ運び上げた。この移転で、石のそばへある家が、屋敷の地ごしらえをした時、不思議な蛇骨石が土中から出てきたので、その家ではこれを大事にまつった。そこで、この家の屋号は「蛇石」と呼ばれるようになった。

魔除けや重病の薬にと、遠方からその蛇骨石の一片を求めに来る人が多かった。

加藤為夫『富士川谷物語』
(山梨日日新聞社)より