蛇池の由来

原文

物語りの所在地は、塩山駅西前より勝沼町等々力四ツ角にて、国道第二十号線に通ずる、塩山-勝沼線県道沿いの熊野神社、花園地区へ一キロ位い行くと、重川が流れている此の処ろに架かっている城ヶ坂橋を渡ると、腕曲状な城ヶ坂が改修されて、その昔坂の上に西野原砦(城)があったという西野原に通じている。序に紹介しておくが、数百年前城があったという事で、坂の名称も城ヶ坂と呼ばれている訳である。

此の城ヶ坂は、戦時中最初に失対工事で、村道を改修する以前は、巨木を交じえた大竹林が鬱蒼として密生し、年代は判明しないが、凡そ今より二百年位い前のことだから、所謂ジャングル様だったといっても過言ではないと思う。此の大竹林の裾の方に、約二十坪位いの池があって、水は竹林よりの湧水が溜っていて、奇麗に澄んでいたという基から、誰れ言うともなく(鐘ヶ池)と名付けられていたのである。此の池が、後に蛇が棲んでいたというので別名(蛇池)とも呼ばれていた。

それはある秋の日の夕暮れ時、一人の若い眉目秀麗な旅の修行僧が疲れた足を引きながら、此の大竹林に蔽われた坂の小路を辿って来た。四辺はすでに暮色蒼然として、路は竹藪の中を通り抜けているのである。消魂ましい鳥の啼き声、梟の声もする、流石の旅僧も薄気味悪い坂路を登ることを諦めて、引き返そうとすると、急にパット視界も艶やかに明るくなったように、何処からともなく妙令の美女というより、むしろ妖艶な娘が現われて、「もし旅のご出家様、どちらへ参るのでしょうか、若しお路がおわかりにならないなら妾がご案内申します。」

「いや拙僧は、西野原郷へ参るつもりでやって来たのですが。」

「ではご案内致しましょう。」

「それはまことにかたじけない、お願い申す。」

坂の上まで先に立って案内して来た娘は、「此処より西野原郷です。では明日も此の時刻にお会いしましょう、あちらを向いて眼をつぶっていなさい。」というので、旅僧はそうしていると、娘の姿は何処かへ消えて行った。

その晩旅僧は何処へ行って泊ったかは定かではないが、あくる日になったが、旅僧の頭の中から、昨夕の妖しいまでに美しい悩殺的な娘の容姿、魅惑的な顔が離れず、むしろ強い磁石にでも引き付けられるような強い眼に、見えない引力に引き寄せられるように、例の竹林の中の池の畔に行ったのである。すると何処からともなく昨夕の娘が艶やかな姿で婉然と姿を現わして、「あら、お約束通りお出でて下さったのね」といいながら摺り寄って来て、男の手を握ったのである。

「いや、昨夕はどうも有難う、お蔭で助かったよ。」

男は本能的に娘をかき抱いた。

こうして、ご多聞に洩れず、両人のかたまりは、甘味な楽しいクライマックスに陶酔したのである。このような妖しい会う瀬が幾夜かつづいて、池の主の娘は身妊った。やがて男の子が生れ、二人は非常に喜んだ。

しかし旅僧は、暫しの別れを惜しみながら、何ヶ月かの修行に再び旅立って行った。その後約一年振りで、突然帰って来た時、女は乳呑児を抱いてお乳をやっていたが、実に驚いた。それは上半身が女体で、下半身が蛇体だったからであった。半人半蛇の姿を男に見られてしまったので、蛇は子供をそこにおいて池の中に這入って行った。

此の蛇と旅僧との間に生れた男の子が、後に名僧となり「清源寺」の創始者となったとの事である。因に、その創始者の背中には、蛇の鱗が何枚か有ったとの事である。又その子孫が代々寺を継ぎ、此の地域の人々の尊敬と信仰の的となっていた。現在は後継者が絶え廃寺となっているが、その寺の位置と所在地は、西野原部落民の帰依する、田上神社奥の院に隣接した北東部に、約六、七百坪位いがその寺跡であり、無縁仏になった珍らしい型をした墓石が、今なお転在している。

なお、「清源寺」の宗旨は、禅宗だったという事は解っているが、何派という事は判明していない。本文中に書いた「西野原城」については、文献等を研究して、機会を見て発表したいと思っている。

附記

右清源寺の何代目の住職か知らないが、入浴が人一倍好きで、昔は薪が大切だったから、農家では、一週間に一回位いしか風呂は立てなかったが、毎晩入浴したいので、村中貰い湯をして歩いたとの事で、私等が子供のころ、風呂好きの人の事を、「清源寺坊主」のようだとの流行語が、人々の口にされていた。

(原題:「城ヶ坂鏡ヶ池(別名蛇池)の由来」)

『塩山市の伝説・民話』(塩山市教育委員会)より