無生野部落に、次郎太ふちとよばれる大きなふちがありました。
ずっと昔、次郎と太郎の兄弟が魚とりに来て足をすべらし、ふちに落ちこんでおぼれてしまったことから、このふちを次郎太ふちとよぶようになりました。
ふちの両側からは、大きな木がうっそうとおおいかぶさり、きりたった岩はだには青白くこけが光っていました。
どんよりよどんだ水面は、音もなく静まりかえり、昼間でも、不気味な感じを与えていましたので、人々は、あまり、このふちには近づきたがりませんでした。
ある日のこと、一人の男が、このふちにつりにやってきました。この男は、はじめからこのふちで釣ろうと思ったわけではなく、川下の方で釣っていたのですが、どういうわけか、この日は一ぴきも釣れません。そこで、みんながこわがって近づかないこのふちへ行けば、きっと魚もたくさんいるだろう、と思ってやってきたのです。
男は、水面に足を投げ出すようなかっこうで、岸の岩の上に腰をおろし、油をうったようにさざ波もない水面に釣り糸をたれました。
「きっと、でかいのがいるぞ。」
男は全神経を釣りざおを持った右手に集め、強いあたりを今か今かと待っていました。時おり動く釣りざお以外に動くもののない場面に、しばらくすると、別の動きが加わりました。
水の中から一ぴきのクモがあらわれ、男のはいているわらじのはなむすびをぐるっとひとまわりすると、小さい波もんを残して水の中に消えていきました。
釣りに夢中の男は、そんなことは気にもかけず、一心にうきを見つめていました。しかし、同じことが二度、三度とくり返されてくると、「はてな?」と、思いました。はなむすびを注意してみますと、白く光る細い糸がついています。
「こんなとけえ巣をつくったって、おれが動きゃあ、じきにだめになっちまうに」
などと思っている間にも、クモは、同じ間合いで出てきてははなむすびをひとまわりし水の中にはいって行きます。
男は、はなむすびについた糸を、すぐわきのねこやなぎの根につけかえてやりました。そんなことをくり返しているうちに、糸は、だんだんと太くなってきたようでした。
すると、今までしずまりかえっていた、ふちの底の方から
「次郎も太郎も、出て引けヤーイ。」
と、かけ声がかかりました。男は、とび上がるほどおどろきました。自分ひとりしかいないと思っていたのに、そして、その声は、たしかに水の中でしたようにきこえたのです。
しかし、それだけではありません。もっとおどろくことがおこりました。
糸をかけていたねこやなぎの根株が、ずるずるとふちの中へ引きこまれてしまったのです。
「もし、はなむすびの糸を、根っ子にかけけえていなかったら……」
水グモのやっていたことのわけがわかると、男は、背筋がさむくなるのを感じました。男は、
「わあっ!」
と、悲鳴にも似た声をはりあげると、後も見ずににげ帰りました。それ以来、ますます、誰も、このふちには近づかなくなったとのことです。
今では台風などで土砂が流れこみ、すっかり浅くなってしまい、昔のおもかげはなくなってしまっています。