大泉

原文

八ヶ岳の麓谷戸の清吉爺さんは、八ヶ岳を築山の様に考えている。或日いつものように赤嶽入りの大だるみに出たそれから権現、三ツ頭、燕岩と下ったが一頭の獲物も目に止まらなかった。爺さんは無言のまま岩角に腰を下して煙草を喫っていた。すると二三歩先の叢に大きな白蛇が爛々たる眼を光らして此方を見ている。熊にも狼にも驚かぬ清吉爺さんも、遉に是にはギョッとしてすぐに傍の銃を取って白蛇の頭部に狙を定めた。併しどうした事か彼の慣れ切った手も指も忽ち硬化して引金を引く事さえ出来ない。其の中に白蛇は銃身にまつわり、爺さんの五体をも一呑みにしようとした。爺さんは銃を投げ出して逃げようともがいたが其の儘気が遠くなり人事不省に陥った。軈て夜露に潤ほされて自然に蘇生した彼は、飛ぶ様にして村へ帰り、事の次第を物語った村人は清吉さんの話を聞いて、彼に案内されて例の岩角に行って見ると、清冽な泉が噴水の様に湧き出ていた。村人はこの奇蹟を以って神の恵みと感謝し、白蛇を神の化身として渇仰した。それから後泉は滾々として尽きず、岳麓数ヶ村の飲用水となり灌漑水となっている。清吉爺さんの功徳は今尚村人に讃えられている。(流石英治)

北巨摩郡教育会『郷土研究 第二輯 第一冊 口碑伝説集』
(昭和10)より