原文

安都玉村原長澤の北に泉がある。

昔、原長澤の猟師某が八ヶ岳の原へ狩に出掛けた。一日中山の中を歩きまわったが獲物はさっぱりなかった。帰ろうとすると大山火事に襲われた。某は火の中をあっちこっちと逃げまわった。ふと見ると根本の焼かれた小松の頂上に火に追われた小蛇が一匹巻きついていた。可愛想に思った猟師は手に持った鉄砲を差し出して「お前も山火事に追われたか。これに巻きつけ助けてやるから」と、言った。蛇は人の語を解したであろう某の鉄砲に巻きついた。彼はその鉄砲を担いでやっと火の気のない処まで逃げた。そうして蛇を放してやった。彼が家に帰ろうとすると、どうしたことかあたりが急に真暗になって一寸先も見えなくなった。方向さえ解らない。こまりはてた某はあてどもなく暗みの中をさ迷った。ふと見ると彼方に燈火が見える。村家へ近くなったものと思った彼は、兎に角その家を訪ねることにした。

しばらくして灯の家について見るとそれは一軒のあばら家で老母が一人火をもしていた。猟師は道に迷って困っているが灯を貸してもらいたいと頼んだ。

すると老母は「まあ、あなた、先程は有り難うございました。お陰様で子供が助かりました」猟師はなんのことか分らずぼんやりしていると老母は更に言葉をついで「実は私はさきあなたに助けて頂いた小蛇の母でございます。あなたにお礼をしたいと思って、こうして此処へ来て頂いたのであります」あまりの不思議に猟師は言葉も出ない。老母は又「あなたに何かお礼をしたいが何か欲しいものを言っておくんねえ」と言った。某はやっと心をおちつけて自分たちの村に水の乏しい事を思い出して、水を欲しいと願った。

老母は「そんなことは何の造作もない事」といって裏口へ出で芦を一節斜に切って来た。そうしてそれに水を入れて「あなたの望む所へ此の水をこぼすと、そこから水が湧き出します」と、芦をもらった某は帰ろうとして礼を言ってその家を出た。するともうそこはその家もなければ老母も灯も見えなかった。あたりにはもう夕方の日が照っていた。全くそれは夢のようだ。而し水の入った一節の芦を持っていることは事実だ。

急いで家へ帰ろうとした猟師は途中で小便をしたくなった。仕方なしにその芦を手近の小松に立てかけた。すると突然風が吹いて芦が倒れた。あわてて芦を取り起したが大部分の水はそおにこぼれてしまった。とそこからきれいな泉が湧き出た。それが今の泉である。然しそれは彼が望んでいた場所ではなかった。そこで彼はその芦をもって残りの水を村の中央にこぼした。するとそこにも少し水が湧き出た然し今度は水が少なかったから湧き出る水の量も極く少しだ田二段歩を養う程しか水が出ない。これは原長澤の祖師堂という土地の小さい泉である。(藤森幸太郎)

北巨摩郡教育会『郷土研究 第二輯 第一冊 口碑伝説集』
(昭和10)より