女取川哀話

原文

長坂町と小淵沢町の境を流れる川を女取(めとり)川という。この川をさかのぼって行くと小荒間地内で女取湧水にたどり着く。これは、女取川にまつわる話である。

 

昔、庄屋様の家に明けて九歳になる小夜という一人娘があった。小夜は評判の器量よしの上にとても働き者で、隣家の赤子の子守までもするほど気のきく娘だった。男手一つで育てている庄屋様にとってこのことは何よりの自慢であった。

ある日、小夜は隣村のお役人の家に父親に頼まれ書き物を届けに行くことになり、赤子を背負って往復三里の道を歩いて出かけた。天気も上々、背中の赤子に声をかけかけ歩いていった。お役人の家では大変ほめてくれ、おひるをごちそうしてくれた。帰りには、いただいた団子を背中の子とほおばりながら村はずれまで帰ってきた。

そこには幅二間ほどの川があり、飛び石伝いに渡って行った。あと一歩で向こう岸に渡りきろうというとき、懐から肌身離さず持っていた大切な巾着を川の中に落としてしまった。その中には、鎮守様の護符と母の形見のかんざしが入っていた。小夜は、背中の子を木の根方におろし、着物の裾をたくし上げて巾着を拾おうとした。とその時、まぶしい光が小夜の目の前を走りぬけたかと思うと、小夜の手は強い力で水の中に引きこまれてしまった。

小夜の帰りが遅いので心配した村人が迎えに行くと、川の近くの松の木の根方で赤子はおとなしく眠っていたが、小夜の姿は見当らなかった。村中総出で三日三晩探したが、川岸にあっった草履の他はとうとう見つけることはできなかった。

探すあてもなく村人が困り果てていると、村一番の長老が、「この川に住む竜神様が、いつもここを通る小夜にずっと前から見惚れていて、嫁に取ったのではないか」と言った。

それ以来この川は女取川と呼ばれるようになったということだ。(小荒間・清水ちとせ)

 

異伝:

谷戸村に権三郎と妻おかよ、一人子八造と三人暮しの一家があった。もとは相当な家柄だったが、今は貧しい暮しをしていた。

権三郎がふとした風邪がもとで大病になり、ぽっくり亡くなった。おかよはすでに五十の坂を越し、生活力もない。そこで八造を信州立沢村の長左衛門宅へ年季つきで作奉公に出した。八造は19歳、元来真面目でそのうえ、人品も賤しくなかったことから、いつしかこの家の一人娘おきみと恋仲になってしまったが、身分の隔たりが恋の成就をさまたげた。

ある日おきみは、「あなたの年季もあと僅か、お腹にはみどり児も出た様子、あなたの誠実の証しに形見の品をくださいな」といった。

そうねだられ八造の脳裏に浮かんだものは、その昔母親が御殿奉公していた頃殿様から拝領し、大切にしていた巾着であった。

あくる日、八造は主人を偽り1日の暇をもらい、土砂降りの雨の中をわが家へ戻った。「ゆんべ夢見が悪かったんで、おっ母を案じてやって来た。」…母の秘蔵の品を盗み出すための苦しい嘘であった。

久々にわが子と眠る心安さに母はぐっすり眠りこみ、八造はまんまと巾着を手に入れ、夜明けを待って主家に戻ることにした。

川までくると昨日の雨で増水し渡れない。しかし帰りたい一心で足を踏み入れたところ深瀬にはまり溺れ死んでしまった。

八造の溺死体が発見されたとき、懐には巾着がしかとしまいこんであった。知らせを聞いた母親は、恋に眼がくらんでの非業の死と直感し、「憎んでやる、この巾着に身をやつし、この川の主となってわが子のため憎い仇、若い女や娘達を取り殺してくれるぞ」と巾着をくわえて流れにわが身を投じた。

それから数年後のある日のこと、母親連れの旅人がこのあたりを通った。すると上手から美しい巾着が流れて来た。「あっ、きれいな」と取り上げようとした瞬間、巾着は蛇体になり、母親もろとも水中に呑まれてしまった。

それ以来あの川には巾着の主がいる、女を取る川だといわれるようになった。(『長坂上条区誌』)

長坂町『長坂のむかし話』より