大炊ヶ池の鏡

山梨県北杜市

昔、鳩川の畔に農家があり、美しい一人娘がいた。父は農の合間に鳩川の源である大炊(おおい)ヶ池で漁をし、生活の資を得ていた。娘はその美しさから多くの縁談を受けたが、応じなかった。そんな家に、ある年の夏一人の旅僧が訪れ、一夜の宿を請うた。

その僧には只者ではない高僧の風格があり、娘は異様の霊感を受け、翌朝旅立とうとする僧を引き留めるのだった。そして、鏡に向かい化粧に身をやつすようになり、その美しさは日増しに加わっていった。ところが、その素振りにも僧は微動だにせず、娘は父に僧との結婚を申し込んでもらった。

これに僧は、父が殺生である漁を止めるならば応じよう、と答えたが、父は生計のため娘の願いを叶えることはできなかった。しかし、娘は諦められず、さらなる逗留を請うて、その間に父の心を変えようとした。

そんなある日、化粧を始めた娘は、顔に鱗のような痣があるのを認めた。慌てて色々の薬を試したが痣は治らず、顔の鱗は日に日に広がっていき、どうしたことかそれを確認するための鏡が見つからなくなってしまった。娘は失望落胆にくれたが、さらにそこで旅僧が引き留めを固辞して旅立つこととなった。娘は嘆き悲しみ、我を忘れて僧の後を追って家を出た。

僧は大炊ヶ池へ向かい、不思議なことに池の中に消え失せてしまった。ここに至り、池の魚神が父の殺生への祟りとして化身してきたのだと悟った娘は、恐怖に襲われて自らも池に身を投じて魚神の怒りを鎮めようと入水してしまった。

娘を哀れに思った鏡を盗んでいた悪太郎も、その鏡を池に投じたという。そして、以来この池中の鏡を取り出して祈れば雨が降るとされた。池の魚は捕られることがなくなり、土地の者には「お弁天池」とも呼ばれたという。

長坂町『長坂のむかし話』より要約

大炊ヶ池というのは不明。栗林にあると書かれるが、これが地名なら大八田栗林というところだろうか。ともあれ、これを(「魚神」だが)蛇聟と見るならばずいぶんと珍しい話といえる。漁をやめさせるために僧となって来る蛇、というのは見ない。

しかし、これを所謂魚の怪(岩魚の怪とか鰻の怪とか、毒を流す漁をやめさせようと魚のヌシが僧となって現れる)と見るならば、その変形か、とも見える。蛇とはしていないところから見ても、こちら寄りの話と見るべきかもしれない。

ただ、そのヌシに見込まれたがゆえに「鱗のような痣」を生ずる、というモチーフは蛇聟の話の一系に見られる重要なものだ。甲信地方では、上水内郡黒姫山の伝説にも、高梨政盛の姫が竜蛇に見込まれ、体に鱗が生えたのを悲観し入水する、という筋のものがある。

さらに、長者の娘の顔に痣があり、それを娘が知ることのないよう鏡を隠す、というような話も多い。いずれそれらは女人蛇体を暗示するものだと思う。大炊ヶ池の話も、その一例として勘定しておきたい。