大笹池の下條婆々

原文

今より凡そ四百年前、本郡下條村の一婆婆(ばんば)に、何の病気か知らないが額に角を生じた。老婆はこれを人に見らるるを恐れて常に手拭を被って隠していた。ところが或時洗濯をしていると強い風が吹いて来て、あっと言う間に手拭を吹き飛ばして了った。老婆の頭の二本の角は側にいた嫁と近所の某に見られたのである。老婆は大いにこれを恥じて直ちに走せて西山に至り、山中の池に投身して遂に其の池の主となった。現今の甘利山の椹(さわら)池がこの池である。其後天文年中領主甘利氏の二子が此処で釣をしたが誤って墜落し溺死してしまった。そして其の死骸も水底に沈んで現れなかったので、これは必ず池の主の蛇身化生の仕業であろうというので、里人一同は領主の命に依って附近の椹を伐り倒して之れを池中に数多投げ入れ、尚其の上に土石汚物等を入れて池を埋めた。其の時池中から一頭の赤牛が飛び出して大笹池に走って行った。これは先に投身した老婆の化身であった。この赤牛は大笹池に行ったが住む事が出来なくて、更に中巨摩郡御影村の野牛島(やぐしま)の能蔵(のうぞう)池に逃げて行ったが果して其処に落付いたかどうかわからない。或は一説に同郡源村大嵐の観世音はこの赤牛を祀ったのだとも言っている。(旭村・小野常廣)

北巨摩郡教育会『郷土研究 第二輯 第一冊 口碑伝説集』
(昭和10)より