弦間八兵衛と鮫

原文

弦間八兵衛正吉は弓の名人で、五人張十五束を引いたといわれる。ある時駿河より船に乗ってある所へ行こうとした。海路なかばに海中より一匹の鮫が現われ出て船の進路を阻んだので、人々は驚いて色を失った。船頭がいうには、誰か一人犠牲とならなければならない。手拭を下げて鮫に引かれた者は、鮫に食われるために海に入れ、ということである。その言葉に従って手拭を下げたところ、弦間八兵衛の手拭が引かれた。八兵衛は色を成して怒り、直ちに弓を取って鮫を射殺した。船ははじめて動き人々は安堵した。八兵衛は用務を了えて帰り途、その浜辺を通り、鮫が白骨と化しているのを見た。八兵衛は、余を見込んだのはこの鮫かと足でこれを蹴ったところ、その白骨が八兵衛の足を刺した。八兵衛はその傷がもとで病気になり、ついた駿河で死んだということである。(『中巨摩郡志』)

右の伝説には実在の弓の名人弦間八兵衛が登場する。『甲斐国志』士庶部第八巨摩郡中郡筋に「弦間八兵衛正吉」円満寺村の項があり、「寛永中弓術ヲ以テ行ハル所在ニ伝書ヲ蔵セル者アリ府中一蓮寺、過去帳ニ元和四年九月廿七日住一房玄間悲母トアリ。今本村ニ子孫纔ニ存セリ」と書いている。八兵衛は江戸時代はじめごろの人である。

『甲府市史 別編 I 民俗』より