水戸際池の伝説

原文

木場川前の電鉄線のわきに、山佐が池とか金巻池とか呼んでいる池がある。もとの名は水戸際池という。川の土手が切れて、水が急流のように流れ入るその切れ口を水門というが、そのそばの池と言う意味だろうが。その池には次の伝説がある。文久三年、今から百四十年位前、彦治郎さんの家の所に八郎(現存のものと別)と言う家があり、そこにオジという若者が盲の祖母と一しょに住んでいた。丁度その頃、村内に盗難が頻りにあり、人人は不安におののいていた。

ある朝、六右エ門の家の者が朝飯をするために、におに藁を取りに行くと、におに着物が隠してあった。泥棒が置いたに違いないと近所の者に集まってもらい、今に取りに来るだろうと棒を手にして隠れて待っていた。果してほおかむりしたうさん臭い男が近づいて来たが、取り押えられてたちまち縛り上げられた。手拭を取って見ると八郎のオジであった。

(中略・散々の命乞いも聞き届けられず、オジは俵につめられ中ノ口川に投げ込まれてしまう。必死で岸に戻るが、また投げ込まれてオジは沈んでしまう。村人たちは恐ろしくなって一目散に村へ帰る)

春が過ぎ夏が来た。来る日も来る日も、毎日嫌な大雨が続いた。中ノ口川はその頃川幅が三十間(約五四メートル)程でしかなかったが、川上から水が押し寄せて水かさが増し、土手すれすれまで増水した。雨の中に早鐘が打たれ、ホラ貝が鳴り、村の人達は総出でミノカサで川前の土手を守った。しかしとても防ぎきれない。とうとう地蔵様のわきが切れて、「アッ」という間に大水がどうどうと流れ込んだ。その時、オジをつめた俵があわてふためく村人の目の前を、水と一緒に村の方へ流れて行った。「ア、オジらねっか。オジが俵だ」と人々の口に次々と伝わった。やがてその俵も泥水の中に消えてしまった。どんどん流れ込む水で村は水の下にもぐり、流れてしまった家も沢山あった。田や畑の作物も水の中で腐って収穫も少く、村人は苦しい生活を送った。

土手の切れた所は村人の協力で塞がれたが、水が引いてから見るとその附近一帯に大きな池が出来ていた。これが水戸際池で、大へん深かった。人々は、オジが池の主になって住んでいると信じていた。それから後、長い間雨の降りそうな蒸し暑い日になると、池の底の方からどこともなく「ウォー、ウォー」という音が聞こえた。村の人達はその声を聞くと、「そら又オジがなっているぞ。おおこわや」と、あの日のむごいやり方を思い出し、身ぶるいをしたという。

 

一、昭和四〇年、村の一婦人が夢で見たとの事から発起して方々に寄進してもらい、オジを八幡宮の境内に祭った。白龍様がそれである。

二、昭和三九年六月一七日の大地震の際、旧水戸際に三メートルもの杭がニョキニョキと林立した。杭は二種類で、短い方は天明年間のものらしい。

三、天明四年、木場と金巻村との間に出入りがあり、江戸の雑用ならびに立合請入用として百二十貫文の出費をし、組内より百貫文の補助を受けている。詳細は不明だが、地割に関しての後の仕末と思われる。(『越後木場の郷土史』)

『黒埼町史 資料編六 民俗』より