矢倉岳の主(後)

原文

(前段別記)

あるとき、一人の目の悪い法師がトボトボ旅をしておった。

この法師、日の暮れるころ足柄山のふもとまで来たが、

「私のような者には昼も夜もない。行けるだけ行ってみましょ。」

と、旅人たちに恐れられている足柄の山ん中をズンズン歩いて行ったんだと。

しばらく行くと、お堂があったので、法師はそこで少し休むことにした。

「今日は、いい月夜らしい、ひとつ笛でも吹いていこうか。」

法師が、心ゆくまで笛を吹いていると、どこからともなく、女の人の泣き声が聞えてきたんだと。

不思議に思って、吹くのをやめると、若い女の声がして、

「笛を続けておくれ。」

とたのんだそうな。

「おやおや、どなたか知らぬが、この夜中、しかも人の近寄らぬ足柄の山ん中で、いったいどうなすったのです……。」

すると、娘は、じつは自分は矢倉岳の主の大蛇で、人のにおいがするのでやってきたと言う。

法師、それを聞いて、ぞぉーとしたが、

「私は、こうして一人で旅をする者、覚悟はできていますよ。」

と言うと、大蛇の娘は、

「いやいやお前が吹く笛があまりにも美しいので聞きほれていたのです。どういうわけか涙が流れてしかたないのです。」

と言う。

「それなら、お前さんの気のすむまで吹いてあげましょう。」

と法師が笛を吹きはじめると、大事な仕事を前にしているのでもういいと断ったそうな。 「でも、夜は長いし、せっかくだからもう一曲吹きましょう。」

と言うと、笛の音を聞いていると涙が出て、だんだん弱気になるので困ると言う。

法師は気になって、いったいどんな仕事をするのだか尋ねたんだと。

すると、大蛇は、強い調子で、

「お前だけには話をしよう。しかし、ぜったいにこのことを人にしゃべってはならない。」と、くぎをさしてから話し出したと。

「いま、自分の山にたくさんの水をためこんでいる。明日、満月が出るのを待って、それを一気に押し流して村を全滅させるのです。」

法師は、これを聞くと体中がガタガタふるえ出したが、それをやっとがまんして、

「何も、そんなめんどうなことをしなくても、お前の大きな体をぶつければ……。」

と言うと、大蛇は、

「それはそうだが、自分は金気の物が大嫌いだ。人家の方には何があるかわからない。だから、洪水をおこして村の者たちに仕打ちをする。」 と答えたそうな。

そうこうしているうちに空が白んできた。

「さあ、お前は、いますぐここをたってできるだけ遠くの国に行ってしまいなさい。」

大蛇の娘は、こう言い残すと、姿を消してしまったんだと。

法師は、あれやこれや考えたそうな。そして何百の人が一度に死ぬのを思うと、自分だけ助かるわけにはいかないと、大蛇との約束をやぶって、そのまま矢倉沢の村に下り、この恐ろしいことをぜんぶ話したのだと。

村は大騒ぎになった。半鐘が打ち鳴らされ、釘や鎌などが山ほど集められた。そして、村人らは矢倉岳に登ると、山肌に

ブスン、ブスン──

と、一斉に金気のものを打ちこんだのだと。

すると、山が

グラグラ──

と大きくゆれて、大蛇があばれだした。

村人らは、地面にへばりついてぶるぶる震えておったと。

大蛇は苦しくなって、ためていた水をもって天に向ってのぼって行ったと。水は、空でとびちり雲になった。大蛇も、体を大きくうねらせながら、どこかへ消え去ってしまったということだ。よかったなぁ。

小田原青年会議所
『私たちのふるさと昔ばなし』より