うなぎ観音

原文

厚木市岡田の平塚道に沿った西側の水田中に要石と刻まれた碑がある。この碑の下に要石(かなめいし)があり、その下に財宝が埋められて居ると云う伝説がある。今から六百年余の昔、南北朝が争った激しい戦争がこの地方でも行われて居た。南朝方の武将、新田義貞の一族・新田義則が厚木村の溝呂木家にかくれて居たと云う伝詳が同家にある。新田義則がかくれて居たと云う、かくれ石と云うのがあり、この石は今は武州砂川へ移してしまった。義則の所持していた財宝は、相模国菊川のほとり、岡田の里の一隅に埋めたという伝説があって、これが前記の要石の下であると云う。新田義則は後に箱根山中の底倉にあった木賀舘にあり、北朝軍の攻撃にあって討死をして居る。時に応永十年。

岡田の要石のある所は観音免と称し、ここに観音堂があった。又、同所にあった地蔵堂と合せて、同村の南の地に移し、貞応二年、僧侶待翁に依って補陀洛院が建立され、後に岡田山永昌寺(曹洞宗)と改名、現在に及んで居る。この寺を通称、うなぎ観音と称して居る、毎年四月十八日観音様のおまつりが催されるが、昔はこの日に寺前の用水堀にうなぎが群集し、このうなぎが堀の中から首をもち上げて観音様を参拝する様に見えたと云う。是等のうなぎが祭日、堂に昇り白うなぎと化したと云う。今も毎年四月十八日には観音様のおまつりで賑わう。

鈴村茂『厚木の伝説・厚木地名考』より