正観寺の弁天

原文

横浜市内に編入されてから川島町となった西谷村の正観寺に弁財天があった、いつであったか裏山の崖が崩れて宮諸共穴が埋もれてしまった事がある。勿体ないことと、村人がその後調べたが穴の位置も分らず、其儘四十有余年を過して居たが、震災後の大正十五年、明けて間もない正月廿四日、此の寺の大檀那中田復四郎氏方へ村人が二三人来て、弁天の穴を掘ってもよいかと聞きに来た。その訳は昨年暮から此の日迄、三回も夢に大蛇が来て「自分は正観寺の弁天だが穴が塞がって困るから掘って呉れろ」というのである。早速許されて近隣の者と力を協せ、漸く穴を掘出した、これより夢にも顕われず、近隣の者が此の事を伝え聞いて参詣者が雲集する様になった。このことが動機となって当時震災で破壊された儘草原であった地に、再建をしたのが現在の寺である。その後再び附近の住民から「弁天様が荒らし廻って困る」と云って来た、調べて見ると檀家の何れの家へも蛇が廻って行った跡が歴然として居る。穴は掘られたが住居が無い為めであろうと、集まって醵金して本堂を建立した、以来弁天様は出現しなくなった。(神中鉄道上星川駅下車凡五丁)

栗原清一『横浜の伝説と口碑・下』
(横浜郷土史研究会・昭5)より