小湊弁天

原文

中区北方町字小湊、小湊橋の側に弁天さまが祀られてあるが、この弁財天は開港当時までは北方の山の上に鎮座して、大木に囲まれて境内も広く、それに霊験も著しいとてなかなか人に知られた祠ではあった。黒船騒ぎがすんでから開港となり、どうも浪人どもが異人を斬り殺す事件などが起るので、赤隊がやって来て警備をすることとなり、谷戸坂上から北方迄の山の上を地均しして兵舎を建たので、この弁天山も遂に陸軍山とか兵隊山とかいわれるようになった。異人にとっては弁天さまも何もあったものでない。邪魔になるので片づけられてしまった。これを見た村の人々、こは勿体なしとばかり、遷すべき場所を探したが、恰もキリンビールのあった土地に昔ながらの池もあったので、一先ずここへ遷すこととなり、その真中へ盛土をして祀るようになった。ところが軈てキリンビールが此処へ醸造場を営作することとなったので、ここにも長く居る訳には行かなくなった。それに異人共がやって来ては、この社を標的にしてピストルの稽古をするので、流石の弁財天も驚いたであろう、ある時村の者が雨降りの日に米を搗いていると、一匹の白蛇が蜿々とやって来た。気味の悪い奴が来たとてすぐさま打殺し浜へ棄ててしまった。

それから又米つきを始めると再び白蛇が現われる、前回同様今度は火に投じた。するとその夜から大熱で頭も上らぬ大病人となった。どうも不思議なことなので法華の行者の許へ飛んで行って聴いて見ると、これはしたり殺した二疋の白蛇はまこと弁財天の御使い、今の所にも居られぬからもとの処へ戻してくれ、そのことを告げ知らせんとやった使者を殺したからその咎めだという。それは大変と早速琵琶池から迎えて、海岸の弁天鼻というところに石の唐櫃を作って祀り入れた。しかし憂目を見るもので、ここも埋立てられることとなり、その埋立主から外へ移転してくれとの催促があって、とやかくしてとうとう今の橋側に祀られるようになった。これに附随する一の奇特は、弁天山から琵琶池へ遷坐の頃から、不思議なことには海から取入れる海苔が悉く腐ってしまうので、非常に困っていたが、弁天鼻へ移してからは一度も腐ったことはなかった。元へ戻りたいというしらせであったのだといい、又弁天鼻という所は蛇の頭のような形であったが、埋立の時截り去られて、この形が全く失われた。然るにこのことあって以来、この場所では自転車、自動車でひっきりなしに怪我をするので、所の者はこれも亦彼の弁財天のお腹立であろうとて、其の霊験が尚著しき響き出した。その故か詣る人もいよいよ数を増し、従って利益を受けることも広大だという話である。(市営バス小湊橋下車)

栗原清一『横浜の伝説と口碑・上』
(横浜郷土史研究会・昭5)より