洲干弁天の松の祟り

原文

大正の震災迄は、中区北仲通六丁目現在の生糸検査所倉庫のある地にあった横浜小学校の運動場に、幾十本かの老松があった。名に高い洲干弁天の森の遺木であったのである。

この地が小学校の敷地と決定した時、邪魔になるからと云うので、片端から伐採することとなった。先ず鋸を入れ斧を立てると、どうしたものか木を伐った人足どもは、其の晩から大熱で一人残らず死んで了った。之を聞いた外の人足どもは、命が惜しいから誰一人進んで手を出そうというものが無い。小学校の教員たちも目前の事実を見せられては、薄気味悪くて何とも督励することも出来ず、とかくしてこの松を伐ることは中止となったのである。即ち之れは弁財天が羽衣をかける松を伐ったから、その祟りだとあって、それが為めに昔の儘の洲干森の一部が残ったのである。然し震災には何ものも免れず、遂にこの口碑に残る森の老木をもこの世から消してしまった。再びもとの姿を見る事が出来ぬ。惜しい話と云わねばならぬ。(市電本町四丁目下車)

栗原清一『横浜の伝説と口碑・上』
(横浜郷土史研究会・昭5)より