後に残る狐の舌

原文

横浜開港間もない頃の話である。今の戸部町辺は横浜道に当るので、商家早くも建ち続いて大層な繁昌を見るようになった。戸部町五丁目の田丸屋という酒屋の小僧が、ある日得意先を御用聞きに廻り、帰りの途中、とある叢の中を見ると、一匹の狐が子狐に乳を与えて昼寝をして居る。いたずら盛りの小僧とて、よいものを見つけたとばかり、忍び寄っていきなり石を投げつけた。驚いた親狐は、飛び上ると子狐を助ける隙もなく、石に足を挫かれたまま逃げてしまった。

小僧は子狐を生捕りにして、鼻高々と家へ帰った。一同は手を拍ってはやし立てる今夜は狐汁で一杯やろうというので、哀れや子狐は店のものどもの腹中となって了ったのである。只、狐の舌は昔から福の神だと云うから、主人が貰い受けて干物とし、箪笥の底深く蔵いこんで置いた、さて追々時の経つに従って、もはやこうした事も忘られるようになったが、その後はどうしたものか商売は寂れる、主人は死ぬ、不幸ばかりが続いたので、流石の店も傾くばかりになったのである。この田丸屋は法華の信者であったので、一体何に帰因して居るか聞いて見ようと、行者に祈祷を頼むと、現われたのが狐である。足を挫かれた親狐が自分が不具になったのみか、いとしい子まで殺された。その祟りであるとのこと、思えばそんなこともあった。成程あの時の狐の舌もまだ残っている筈である。それでは早速お詫をしようというのでこの小狐の舌を稲荷明神と祀り、親狐の霊をも慰めることとして、岩亀横町にある法華の鬼子母神堂を幸いと、此処へ頼んで祀って貰うこととなった。それから狐の恨も晴れ、又昔にかえる家の繁昌を見るようになったという話である。(市電雪見橋下車)

栗原清一『横浜の伝説と口碑・上』
(横浜郷土史研究会・昭5)より